2010年05月02日

如月(1)

如月
FALSE

「どちらに、向かわれますんで?」
 背後から聞こえてきた声に、藤間美音子は顔をあげる。
 ところは京都、汝鳥神社。美音子は他の妖怪バスターたちから遅れて京都を出立すること一日、社務所の玄関から顔を出したところで、声をかけられた。
 美音子が顔を向けた先に見えたものは、社務所の一角、そして物影から顔を出す、薄汚れた一匹の白い大型犬。
 美音子はあからさまに、嫌悪の表情を浮かべる。
「落ちぶれた犬神がなんの用よ。しかも、猫又相手に」
 大顎は、毛深い顔を微かに歪める。笑っているのか、怒っているのか、美音子には判別がつかなかった。
「あたしも一丁前に、連れ合いがほしくなりましてねえ。探しに行くんでしょ? 大厄って奴」
「猫の尻を追いかけようっていうの? 背中から噛みつかれちゃ、たまらないわ」
「心配せんで結構ですよ。そちらさんに着いて行くのが、大厄ってののところへ行く近道だと思っただけですんで……というか、探すあてはあるんですかい? あたしの鼻は、多少あてになりますよ」
 美音子が大顎を横目で睨む。
「心配無用よ。あんな強烈な妖気をばらまいてちゃ、誰だって気がつくわ。行く場所も大方見えてるし」
「さいですな。それじゃ、参りましょうかねえ。いや、戻るっつったほうが正しいですか」
 犬神と、猫又。
 一見、相容れない関係に思える二人の妖怪が、揃って烏丸神社の境内を通り過ぎる。

○   ○   ○

 京都、汝鳥市内。
 格子状に整えられた街路の狭間、住宅に挟まれた裏路地を入り込んで行くと、人目を忍ぶように一件の古ぼけた洋館が見えてくる。蔦がびっしりと大理石の壁面を覆い尽くし、建物の原型すら不明にしている。
 そんな館の玄関にはどす黒く変色するほど古ぼけた表札がかかっており、下の二文字が辛うじて「医院」と読める。すでに表札の意味をなしておらず、ここが病院ないし診療所であるという事実を隠そうとするかのようでもある。
 その病院の前に、使い込んで薄汚れた茶色の皮ジャンパー、下はこれまた使い込んだジーンズといういでたちの、頭に白髪を蓄えた老人が現れる。なぜか手には折り詰めを持つ。彼は洋館の扉を無造作に開けると、我が家であるかのようにその内部へと入り込んで行った。
 待合室の代わりに使われているとおぼしき居間を抜けて、規則正しい間隔でドアが並んだ廊下に入る。手前から数えて三つ目のドアの前で足を止めると、そこに掲げられたプラスチックの名札の名前を確認してから、扉を叩く。
 返事もろくに聞かないうちに、扉を開ける。
「いよう、テル坊。生きてるかぁ」
「全然大丈夫じゃねえ……」
 龍波輝充郎は、ベッドの上から祖父に向かって、そんな悪態をついた。両腕両足を包帯と添え木で固定して、胴体までも包帯で覆った様は、さながらミイラのようでもある。
「いったい何なんだよ、ここは。もう少しまともな病院に運んでくれても良かったのによ」
「こらこら、先生の悪口を言うもんじゃない。お前さんが普通の病院になんぞ入ったら、大騒ぎになっちまうだろ? ここはお前みたいに半分妖怪が混じってても、普通の人と同じ診断書を書いてくれるのさ」
「じゃあ、体を洗いざらい調べんのは、その代償か何かか?」
 祖父は無言で折り詰めを、ベッドの脇に据え置かれた小机の上に置く。
「……この怪我じゃ、いろいろ調べられても仕方あるまいよ」
「それにしちゃ、怪我してねえところまでレントゲンで撮られたぜ。それにMRIって奴は、怪我人に対して使うもんだっけっか? なんの説明もなく機械の中に放り込まれたんだが」
「細けぇこたぁ気にすんなぃ。それよりテル坊、何か食べれるかい? お見舞いの定番つったらメロンだろってんで勢い奮発しちまったんだが、生ものならとっとと食わないと悪くなっちまうっての、忘れててなあ」
 と、折り詰めを開いて、中からネットに包まれた緑色の球体を取り出す。
「回復までには十分な休養と栄養が必要だとさ。まあ、そんなことより」
 刃物を探す祖父を、睨みつける。
「なんで連絡とれなくなってたんだよ。心配したんだぜ? それに、もう少し早くあの葦矢ってのの裏とっててくれれば、後手に回ることもなかったのに」
「それについては済まなかった。こちとらも足を消すために大変だったのさ……おい久世先生、ナイフないかい、ナイフ。なんならメスでもいいぜ、よく切れそうだし」
 祖父が廊下の外に声をかけて、戻ってくる。
「足を消す、って」
「お相手は汝鳥のVIPだからねえ。それが最近の事件の黒幕ともなりゃ、一大スキャンダルさ。天地をひっくり返すような騒ぎになるし、実際なってる。それがもし間違ってたとなりゃ、俺はただじゃあ済まないし、さりとて不用意に動けば事態が明るみになる前に、消されかねないときた。闇に紛れて確たる証拠を求め、悪戦苦闘する我が縦横無尽の大活劇。いやはや、この顛末を語らせたら、一昼夜じゃあ足りないね」
 祖父が胸を張る。確かに語らせたら、虚実交えた話が止まらないだろうし、単刀直入に知りたいことだけ聞くことにする。
「……それで、何が分かったんだ?」
「救世党って、聞いたことはあるかい」
 まさに、聞き覚えのある名前が出てきた。しかも、つい最近の話だ。確かそれは、あの自称陰陽師、葦矢萬斎が妖怪バスターたちに仕事を依頼した時に、引き合いに出した組織の名前ではなかったか。
「昔っから世界の終わりを迎えるために暗躍してたとかなんとか、聞いたことはあるが」
「それな。どうやら葦矢の自作自演だ」
「……そりゃまた」
「本当の救世党はな。明治の始めのうちに、とっとと壊滅しちまったらしい。その後に出てきた救世党は皆が皆、やっこさんの血族が一族郎党、妖怪どもを従えて、起こした騒ぎだったって言うから驚きだ。それが百年以上ばれずに続いてたんだ、誰も奴らが裏でつながってるなんて思うまいよ」
 あきれた話だ。自作自演を、一世紀以上とは。もしも輝充郎たちが萬斎の依頼に従い、大厄の封印へと向かっていたとしたら。烏丸神社を襲ったあの黒ずくめたちは、救世党と名を変えて、やはり輝充郎たちを襲っていたことだろう。
「それじゃあ、あれか。地蜘蛛の連中もあの野郎とつながりがあったってわけか」
「そこまでは分からなかったがな。俺はそこいらの確たる証拠を掴んで、頼れる知り合いを一人ずつ回って地盤を固め、言い逃れのできないようにしてから葦矢を締める算段だったんだが……残念ながら一足遅かったというわけさ」
「まったくだ。もう少し早く出てきてもらいたかったぜ。サークルの次期主力が行方をくらまし、俺もこの様だ。残った連中だけで奴らをとっちめに行くとなると骨だぞ……」
 輝充郎は思わず己の身を起こしそうになった。祖父がそれを手で押しとどめる。
「まあ、急きなさんな。お前さんがその体で無理して戻ったところで、何も変わりゃしないよ。それに、一概に戦力が減ったと決まったわけじゃない。言ったろう? 地盤を固めてきたって。この件に関しちゃ京汝鳥が動く」
 輝充郎が顔をしかめる。
「動くつったってなあ。今までだんまりだったもんを、信用しろってのか?」
「だんまりだったからこそ。この件に関しては、葦矢が牽引してたと言っても言い過ぎじゃない。その葦矢が手のひら返して、客人に乱暴狼藉を働いたんだ。皆が皆、面子を潰されて憤懣やるかたないのさ」

○   ○   ○

 京都駅前。
 朝霞大介が、どさり、と、自分の荷物が詰まったスポーツバッグをデッキに下ろす。
「……さてと」
 大介はなぜか、モザイクタイルの上に置かれた自身の荷物に対して、声をかける。
「そろそろ観念して出てきやがれ。イライラする」
 当然、スポーツバッグは返事をしない。だが、大介はお構いなしに続ける。
「俺が二度も続けて、てめえが中に入り込むのを見逃すと思ってんのか? つか、帰りたけりゃ他の連中と一緒に戻りゃいいだろうが」
 弄ぶように、スポーツバッグに軽く片足を乗せる。微かに中から「ひっ」という声が聞こえたような気がする。
「あくまでも荷物の振りを続けようってんなら、体重をかける。そのまま踏み潰されて、俺の荷物をスプラッタな事態にしてえならそのままにしていろ」
「あわわ、ま、待ってくださいですじゃ」
 スポーツバッグのファスナー端にできた隙間から、にょっきり、細指のような物体が二本、顔を出す。それは切羽詰った様子でぐねぐね蠢くと、どうにか内側からファスナーの両端を押し広げた。
 おずおずと、七月恋歌が顔を出す。
「そのー、やっぱり、駄目ですじゃか?」
「駄目に決まってんだろうが、イライラする! 大体てめえ、用件が冬真に銃を渡すことだってんだら、わざわざ俺にひっついてくる意味ねえだろうに」
「あ、あれは仕方なかったのですじゃ。吹雪様にわての用事が知れたら、あの方が鏡を見る時に邪念が入ってしまいますじゃ」
「……帰りにまでひっついてくるのはなんでだ?」
 恋歌はバッグの中から、上目遣いに大介を見る。
「……わても先立つものなんていただいておりませんですじゃし」
 大介はおもむろに、バッグに乗せた足を地面に下ろす、と。
 その足でそのまま、バッグを蹴っ飛ばした。駅前を行き交う周囲の視線など、お構いなしで。
「誰かに借りろ! 誰かに借りろ! 誰かに借りろ! 俺を頼るな、イライラする!」
「うみいいいいいいい、やめ、やめ、やめてくださいですじゃ」
 どう見てもただのドメスティック・バイオレンスにしか見えなくなってきたそれに、数人の影が近づいてくる。
「お、いたいた。おーい、大介」
 近づいてきたその男たち、堀サワンと春日部晴海の二人に対し、大介は獲物を見定めるような目つきで二人を睨みつける。
「……何すか。ちなみにこれは聞き分けのない馬鹿をイライラと教育してるところですが何か」
「まー、まずは落ち着け。とりあえず、君らが京都を出る前に間に合って良かった。俺らと一緒に帰ろう。君らの分の乗車券もあるから」
「どこぞに、そんな銭を出す酔狂な奴がいるのか?」
「いるんだ、それが。京汝鳥の人たちがね、今回のお詫びに交通費を立て替えてくれることになったって、さっき香奈ちゃんが来て」

如月(2)

 その烏丸香奈が、妖怪バスターたちに対して、深々と頭を下げている。
「皆様、本当に申し訳ありませんでした。私の軽率な判断でこのような事態になってしまい、まことに申し訳なく……」
「まあ、まあ」
 鴉取真琴が、手を振って香奈を諌める。
「私たちも油断していたから、一概にそちらばかりを責められないわ……それで香奈ちゃん、その恰好は、やっぱり」
 紺色のブレザー姿で立っている香奈の足元には、スーツケースが一つ。さらに、錫杖をしまい込んだと思われる、細長い布の包みまで置かれている。
「私も皆さんに追随して、微力ながらご帰還を支援させていださきます。人的支援のほうはお任せくださいまし。私のほかにも数名、すでに東京へと出向いて、東汝鳥の封鎖状態などについて、情報収集を始めているはずです」
「着いて来るのは構わんけどさー、実戦経験はあるんかい?」
 横合いから声がかかる。冬真吹雪が、自分の荷物に腰掛けて、香奈と真琴を見上げている……とてもとても疲れ切った目で。
「あんたの結界術のことは朝霞先輩からも聞いてるけどさー、結構手間がかかるらしいじゃん? 汝鳥ん中で役に立つのかね?」
「な、何を失礼な。私も抗争時には戦列に加わっております。それに、簡易な結界であれば即時に張ることも可能ですわ」
「まー、それはいいとしよう。問題はどうやって汝鳥の市内に入るかじゃね? あんたらの中に警察のコネでもあんの?」
 香奈は唐突に返答に詰まる。
「そ、それは現場の状況を確認してみないことにはなんとも……京都の中であれば多少顔が利く方もいらっしゃるのですが、東京となるといかんともし難く……」
「……だろうな。あんたらにとっちゃアウェーになるんだし、そこら辺弁えといたほうがいい」
 自らの足に喝を入れて、吹雪が立ち上がる。
「どちらへ?」
「新幹線が出るまで、二時間くらいあんだろ? 少し確認しときたいことがある」
「確認したいこと?」
 吹雪は自分の荷物を担ぎながら、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「うざい狐がよこしたインチキ銃を、試しとかないといけない。まー、使わないにこしたことはないけど、いざって時に使えなかったら、俺はあのクソ狐を祟り殺さないといけない」
「試すと言っても、どちらで? 人目のある場所で使うのは、はばかられるものだと思いますが」
「はばかられるねえ、いろいろな意味で。まー、適当に寂れた空き地でも探して、そこで試すとするよ」
 歩き出そうとする吹雪の前に、香奈が歩み出る。
「こんな市街地でそれを探すのは、難しいですよ……私に任せてくださいませんか」
「あんたにだったら、あてがあるっての?」
 香奈は胸を張る。
「お任せください。知り合いのつてをあたってみましょう」



 吹雪が香奈に連れられて去ると、それでは我も、それでは私もと、妖怪バスターたちは思い思いの方向に散って行く。わずかな自由時間ではあるが、それすらも有効に活用したいというのが、彼らの本音だ。
 サワンもまた周囲を見回しながら、考える。
「さて。気ままな三年坊は、何やってりゃいいかな……と」
 ふと、妖怪バスターたちが去った待合室の一角に目を止める。妖怪バスターたちの大半はその場をあとにしたとは言っても、全てが姿を消したわけではなかったようだ。一人、ベンチに腰掛けて動かない者がいる。
 サワンはその少女に歩み寄った。
「塔子ちゃんは休憩かい? なんなら昼飯でも食べに行く?」
 柚木塔子は、ゆるりと、顔をあげる。
「……結構です。あまり食欲もありませんので」
「そうかい。そりゃまた、らしくないね。いつもだったら、『食欲があろうがなかろうが、必要な栄養はとっておけ』って感じじゃない?」
 サワンは、無言の塔子の隣に座る。
「さては、あれか。悩みがあるんだろう? 例えば、いなくなった可愛い後輩たちの安否とか」
「確かに心配ですが」
 塔子が口を開く。まるで、サワンの言葉を否定するかのように。
「それを食い止められなかった自分自身に、現在腹が立っているところです」
 サワンは目を丸くして、塔子を見る。
「食い止められなかったのは、君だけじゃない。俺も、みんなもそうだろう」
「ですが」
 そこで初めて、塔子はサワンを見た。誰かを責めるような目で。サワンか、あるいは自分自身か。
「非力な自分は、誰よりもそれを考える必要があったはずです。しかし私はあの瞬間、翻弄される部員たちの一部でしかなかった。もう少し効率的な人員の配置を考慮できていれば、多賀野は失踪せず、鷲塚が拉致されることもなかったのではないかと思うのです」
「おいおい……」
 サワンはあきれの混じったため息を吐く。
「先日までの君はまるっきり傍観者の様だったのに、何をいきなり監督風を吹かせているんだ?」
「……自覚はしています。自身が迷走していると。ですが思うのです。もっとベストを尽くせなかったか、今自分のできることは何なのか、と」
「結論から言うと、君がどんなに頑張ったところで、結果は覆されなかったと思う」
 塔子が再びサワンを見る。
「そうでしょうか……?」
「なぜなら、敵の手駒が見えなかったから。相手がどんな手を出すか分からなければ、それに対して『塔(ルーク)』が打つ手もないだろう?」
 塔子が驚いたように、瞬きする。
「それは、そうかもしれません。言い得て妙です」
「でも、相手は一部の手駒と動かし方を見せてくれたじゃないか。だったら、打つ手を考えようよ。チェスだと盤面から除かれた駒は使えないけど、将棋なら取り返せるかもしれない」
「ええ」
 塔子は相槌をうったところで、表情を険しくする。
「……確かに、取り返せるかもしれない。しかしそれは、相手の手駒となった者と戦わなければならないということだ……」



「……ところで」「ん?」
 塔子は辺りを見回す。
「我々以上に監督風を吹かさないといけない人たちの姿が、先ほどから見えないのですが。堀先輩はご存じですか」
「ああ、うちの顧問? かなり前に先発したよ。一刻を争うってさ」

○   ○   ○

 同じく、京都駅前。
「あー、妾だ妾。久しいな、何カ月ぶりだ?」
 ネイ・リファールが携帯電話に噛みついている……ように、ウォレス・ジェラルド・ラインバーグには見える。
「大至急動かせる人員を調達してもらいたい……うむ、大至急、手の空いている者全員だ。事態は急を要する。
 用件? 人探しだ。馬鹿者、そんな些細な話ではない。見つからずばリファール家の存亡にも関わるのだ……!」
 頭ごなしに携帯電話を怒鳴りつけているネイを、ウォレスは微笑ましく眺めている。
(これでついにリファール商会も動き出しマスかね……リファール家の命令一つで黒をも白に変える巨大コンツェルン。小娘を学園の日本史教師に据え付けちまったそのお手並み、とくと拝見さしていただきマスか)
 と、ウォレスが一人思案していると、背後からもぼそぼそと話し声が聞こえてくる。
「……うん、多分そのジェイコブたんが受けてる奴。ごめんね、ネイたん言葉足りないから。言う通りにしてあげてくれる? ……うん、分かってる。私からも、やんわりと言っとく」
 みなと そらが、ウォレスたちに背を向けて携帯電話を切る。ウォレスが声をかける。
「ご主人のフォローデスか。アナタも仕事してるんデスねえ」
「ネイたんに何かあったら、中の人が心臓麻痺起こすし、死ぬかもってくらいじゃ済まされないし。ゲーたんこそ、ホイホイ着いてきちゃっていいの?」
「心配無用デスよ。顧問が居らずとも、私の生徒たちは自分たちの判断で行動するデショウしね」
「そっちじゃなくて、妹のほう」
 一瞬、ウォレスが凍りつく。
「……もーあんな馬鹿妹のこたぁ知りマセン。魔神の生贄なりなんなり、何にでもなりやがれってんデス」
「倒れるほど心配してたのに?」
 そらの無感情な視線が、ウォレスを射抜く。
「……あーもう、心配デスとも。大厄に憑かれた馬鹿妹が、どんな騒ぎを起こすかと思うと、心配でろくに寝られやしない。デスが、憑いてるのが大厄の半身だってんなら、それが向かう先は一つじゃないデスか。だったら生徒たちに任せても大丈夫デショ。良くも悪くもあれは愛されてマスし」
 そらは表情を変えない。視線も、ウォレスを凝視したまま動かそうとしない。
「先に言っとくけど、多分ネイたんは吸血鬼にはなんないと思う」
「……へ?」
「ネイたん見てたら、分かるでしょ? 八重歯も前に比べて短くなってるし、吸血鬼の力もなりを潜めてるし」
「気にしてるのはそこじゃなくてデスねえ……」
 そらは動かない。
「…………」
「くぉら、お前ら! 何を駄弁っとるか!」
 ネイが割り込んでくる。
「そろそろ出発するぞ。準備せよ」
「出発するって、どこに?」
「妾どもも商会が動員する人員の一部となって、瑠璃介の捜索を敢行するのだ。草の根掻き分けてでも奴を探し出さねばならん。分かったらとっととムゥヴ! ムゥヴ! ムゥヴ!」
 鼻息荒く、ネイが歩き出す。残されたウォレスとそらが、顔を見合わせる。
「……とにかく、着いてって見マショ。例えあてにならない小娘の勘だとしても、縋れるもんには縋っとかなきゃいけマセンので」

如月(3)

 山梨県、甲州市。
 一時間に一本の路線バスが、奇妙な二人連れの観光客を下ろした。ジャージにリュックサックの一般的なハイカーではあるが、特に運転手の目を引いたのが、その二人が両方とも十代の少女であること、そしてその片方が流暢な日本語を話す、ブロンドの欧米人であることだった。
 ここにやってくる観光客の大半は、甲州市を起点として大菩薩峠を目指す。険しい山道は女の子にはきついかも、まして冬山ならばなおさらだろう。そんな警告に対して、少女たちは丁寧に礼を言ってバスを降車していったという。



 大菩薩峠に至る県道はただただ平坦に登り続けており、峠に挑む者に対して多大な閉塞感を与えてくる。
 樹木に囲まれたアスファルトを見上げながら、ブロンドの少女、トウカ・イーオス・ラインバーグが口を開く。
「どうして、こんな面倒な道を通ることにしたんだ? あの鉄道とかいうものを使えば、もっと早く東の封印に辿り着けただろうに」
 それに対して、黒髪お下げの少女、多賀野瑠璃が答える。
「確かに、新幹線を使えば、もっと早く戻れたろうね。いい時代になった……が、誰もが使う乗り物で帰っては、待ち伏せを食らい易い。ここから山を越えていったほうが、足取りを掴まれにくいと思うのだ」
 双方とも、妙に男じみた言葉を使う。この二人、それぞれ体を別の何かに乗っ取られているという点で共通する。瑠璃は、日本にわたったいにしえの吸血鬼、浦戸辰之進に。そしてトウカは、明治初期に封印された、大厄・供馬尊の半身に。
「なるほど、一理あるし、我々ならこの山越えは造作もない、か。良かろう、その案に乗った」
「無事に汝鳥まで辿り着けたら、約束は守ってくれよ」
 供馬尊が自らの右手を見せる。正確には、その指にはまったものを。
 くすんだ銀色をした、素朴な指輪である。その表面には細かく、直線で構成された見慣れない文字が刻まれている。
「これの魔力に縋りたいのだったな。君も私も自らの体を取り戻すために、互いを助け合うわけだ」
「そういうこと。利害の一致を見たね」
 すると、供馬尊の背中から、二人のものとは別の声が聞こえてくる。
「くそ……そんなことのために、『一つの指輪』の魔力を使うなんて」
 供魔尊が、背中に背負われたままのジョシュア・クロイスを見る。
「これは私の所有物だ。君に使い方をとやかく指図される筋合いはないぞ」
「そんなはずはない。元々は我々の一族が所有していた宝具であったものだ。それをあなたが奪ったんだ」
 供馬尊は、背中のジョシュアに顔を向けたまま、目を瞬きさせる。
「なんだ。お前らの中ではそのように伝わっているのか?」
「そうさ。その後魔神はその魔力を以って、三つの国を滅ぼし、一つの国に戦火をもたらした……」
「と、伝わっているのだろうが、実際は違う。単にお前らのものだということにしておけば、いろいろと都合がいいからだろう」
 今度はジョシュアが戸惑う番だった。
「……どういう意味だ?」
「この指輪はな。元々は私が造ったものなのだ」
「……なんだって!?」
 供馬尊のジョシュアを見る目が、憎憎しげなものへと変貌する。
「元々私は、東欧の小国に居を構える、一介の錬金術師だった。長年の研究成果を踏まえて、術者の魔力と寿命を増幅させるこの道具を製作したまでは良かったが、少々できが良すぎたのだ。お前ら小さき者の祖先がこの指輪による災厄を予見し、指輪の力を敵視するようになってから、他の人間たちまでこの指輪の力を狙うようになった。いくつかの国が滅びたというのは、彼ら自身が指輪を奪い合い、争った結果によるものだ」
「そんな、馬鹿な。我々の一族が、間接的に国を滅ぼしたとでも言いたいのか?」
「実際そういう話なんだから、そう言わざるを得ない。嘘だと思うなら、信じてくれなくても結構。過去に我が元に来た小さき者の探索者にも、同じことを説明している」
 ジョシュアは愕然として、言葉がない。その脇で辰之進が、一人得心したかのように頷いている。
「うんうん。大方の歴史ってそんなものだよね。勝者の都合が良いように捏造されて歪んでいく」
 供馬尊が、辰之進に声をかける。
「長話が過ぎたな。そろそろ出発しないか。日が暮れる前に山を越えておきたい」
「ああ。時間もさほど残されていないことだし」
 供馬尊の見る目が丸くなる。
「……まずいのか? 見たところ、その体はきちんと掌握できているように思えるが」
「少なくとも、今はね。ただ、少し前までかなり饒舌だったこの体の本来の持ち主が、今は不気味に黙りこくっている。どうにも、何か企んでいるような気がしてならなくてねえ……」



 その辰之進が乗っ取っている、瑠璃の精神世界では。
 瑠璃が吹きすさぶ大雪の真ん中で、雪原の上に正座している。服装は白衣と緋袴のみ、足にいたっては、裸足である。
 しかし叩きつけるような吹雪を前に、瑠璃はなんら憶することがない。驚くべきことに、その体には一切雪が付着することがなかった。
 その傍らでは、大黒天が腕組みをしたまま、仁王立ちしている。彼は吹雪に一切動じることのない瑠璃を見下ろしている。
「……手前の心象に飲まれることがなくなってきたな。いいぜ、そのままの状態を、一時間でも二時間でも続けられるようにしろ。
 では、次の稽古だ。前も言ったがこの吹雪はお前の精神を具現化したもの。お前の一部だ。だから、お前ならこの風景をいくらでも操ることができるだろう。
 心を平静に保て。この吹雪を、お前の意思一つで止めて見せろ」
「…………」
 瑠璃は無言で頷くと、一身に念じ始める。凪いだ風、澄み渡る空、静寂の銀世界を思い描く。
 すると、まるでそれに呼応するように、周囲の吹雪に変化が生じ始める。豪雨よりも激しい勢いで降り続いていた雪が次第に減り始め、風の勢いも衰えていく。
 大黒天が、頭の帽子を押さえる手を離しながら頷く。
「大分飲み込みが早いな。一足飛びに次の稽古をしようか。
 次は逆をやるぞ。この吹雪を手前の思いつく限り強烈な姿に変えて見せろ」
「…………」
 瑠璃はさらに念じ続ける。風の勢い、雪の勢いが甦り、瑠璃たちはおろか、周囲の光景すら吹き飛ばすほどの大風が吹き荒れ始める。
「こんなもんじゃまだぬるいぞ……まだまだ……まだまだ……お前の体を乗っ取るあの物の怪を、吹っ飛ばす勢いで……」
「…………!」
 唐突に、瑠璃に異変が生じる。体に一切触れなかった雪が途端に瑠璃の体にまとわりつき、風の勢いにひるむ。
「……何やってんだ。いきなり迷いが出たぞ?」
「す、すみません」
 三度瑠璃が念じ、たちどころに体に付着した雪が蒸発する。
「なぜ、あの物の怪を封じるのを迷ってんだ。奴ぁお前の体を、いいように操ってるんだぞ。悔しいとは、思わんのか?」
「確かに不快ですが……」
 大黒天は再び帽子を手で押さえながら、深いため息を吐く。
「甘ぇな。泣けるほど甘ぇ。日和見な態度は身を滅ぼすぜ。非情に徹しろ」
「……でも、本人は人間に危害を加えるつもりはないと主張してますし、もう少し様子を見ても……」
「じゃあ聞くがな、瑠璃」
 大黒天は膝を折り、瑠璃の顔をすぐ間近で睨み据える。
「お前は七月宮が豹変した時、何ができた?」
「……それは……」
「そもお前はその直前まで、七月宮と友人のように接していたのだろう? それが全てだろうに。物の怪の本性は、ぱっと見の態度や印象で測ることなどできはしない。いい加減お前はそのことを学ぶべきだ」
 瑠璃は息を飲み込んで、思い直す。
 大黒天の言う通りだ。瑠璃は、恋花の異変に対して直前まで気がつくことがなかった。夏合宿での体調不良や、恋花が現地の不良に与えた被害など、いくらでも気がつく要素があったというのに。それも全ては、瑠璃自身の恋花に対する思い込みによるところが大きい。うわべばかりの先入観で二度も同じ失敗を繰り返すことは、許されない。
「……分かりました。私、迷うの止めます」
「結構。しばらくはこの嵐を御する訓練を続ける。もしもあの物の怪がお前の体を使って悪さを働くようなら、今度は実地で試す。いいな?」
 瑠璃は再び吹雪と向かい合う。失敗は許されない。敗北は許されない。来たる、恋花との対決のためにも。

如月(4)

 右手に握られた、白い木刀。
 左手に握られた、短い木刀。
 蓮葉朱陽は、二本の木刀……播磨源蔵の遺品となる、白河塗りから切り出された木刀を手に、マリア・ロックウェルと向かい合う。
 対するマリアは、模擬刀の小太刀二本を両手に構えている。
「本当にガチでやって大丈夫かあ? 普段は一刀だろうに」
「不慣れだからこそ。早いとこ二刀に慣れときたいんですよ。マジでやっちゃって構いませんので」
「ま、そういうことなら遠慮なくやらしてもらうが。本番があるんだから、怪我すんなよ!?」
 ひゅん、と、マリアが小太刀を一振りする。朱陽も二刀を構え、互いににらみ合う。
 先手をとったのは、マリアだった。
「しゅっ!」
 先の先を狙う、目にも止まらぬ速剣である。朱陽は左手の脇差で、辛うじてそれを受け止める。
 ちゃりん、と、澄んだ音が辺りに響き渡る。
「おいおい……」
 思わず声を漏らしたのは、二人の対決を外野から眺めていた御神鋼音である。
 二回、三回とマリアは太刀を重ねるのだが、朱陽の太刀と打ち合って聞こえる音は、全て乾いた金属音ばかり。
「本当に、それは木刀なのかあ? どう聞いても普通の太刀で打ち合ってるようにしか聞こえないじゃない」
 朱陽はマリアと打ち合いながら、鋼音の疑問に応える。
「どこまで行っても、こいつは木刀さ」
 金属音が響き続ける。
「しかしこの感覚、衝撃は、どう捻っても金属だねえ……しかもこの軽さときたらどうだい。まるで小枝を振り回してるみたいに軽やかだ。こんなものを延々と使っていたら……元の太刀にゃ戻れなくなりそうだよ!」
 右手の太刀を振るい、初めて朱陽が攻めに転じる。それを受け止めたマリアの体が、小さく揺らぐ。
「なるほど、確かにただの木刀じゃなさそうだ。そんじゃ、少しペースをあげてみようか!」
 文字通り、マリアの太刀が勢いを増す。神速の太刀が連続で繰り出されるようになり、四方八方から朱陽を狙い打ちにする。
 朱陽は最初こそそれを受け止めていたが、マリアの速さに対して押され始める。徐々に体制を崩され、そして、ついには。
 木刀の根元をマリアの太刀が捉え、弾き飛ばす。朱陽の手を離れた木刀がくるくると回りながら飛び、三メートルほど後ろの地面に突き刺さる。
「…………」
「ほい、殺した」
 マリアが小太刀の切っ先を朱陽に突き付ける。朱陽の手元に残っているのは、左手の脇差のみ。もはやマリアの二刀を、防ぎようがない。
「……降参。やっぱりロックウェル先輩の太刀は速いね」
「速いだけさ。オイラじゃないとできない太刀筋でもある。こいつは主観だけど、朱陽には二刀を使いこなすのは、難しいと思うね」
「……やっぱり、無理ですか」
「無理とかじゃなく。これから朱陽が本気で二刀流を身につけたいっていうなら、長い修練の時間がいるってことさ。近々の実戦で使っていくとなると、本当につけ焼き刃程度のものにしかなんないよ?
 増して、朱陽の太刀筋はどっちかというと剛剣よりじゃん? そのスタイルを崩して、しかも真剣よりずっと軽い木刀を使ってまで、二刀流にクラスチェンジしたいか?」
 朱陽はマリアの言葉を聞きながら、唯一手に残った脇差を、しげしげと眺める。
「……そうなんだよねえ。やっぱりこいつは遊ばしておいたほうが、無難かな」
「先生、先生」
 するり、と、朱陽の背後から鋼音が顔を出す。
「その遊んでる脇差について有効な活用を目指す前向きな提案をさせていただきたいのですが」
 妙にかしこまった敬語である。何を考えているのか、大方容易に察しはつけられるのだが。
「なんだい? その提案って」
「誰かに貸「却下」
 有無はおろか台詞すら言わせない即答ぶりに、思わず鋼音がつんのめる。
「えー、少しは検討してくれても」
「この木刀はねえ、鋼音。白河塗りを播磨の爺さんに託したら、頼んでもいないのに一緒に彫り出してくれたものなんだ。どうしてかは分からないけど、あたしゃ二本一組で使って初めて意義のあるものだと思ってる。
 だから誰かに一本だけ貸すようなことはしない。鋼音、当然あんたにもね」
 名指しされた鋼音が口をとがらせる。さりとて、仕方がない。鋼音の質問は元から、脇差だけでも自分に使わせてほしい、と暗に言っているにも等しい。
「ちぇー。あの指輪と力比べしてみたかったのに」
「指輪、って?」
 マリアが顔を鋼音に向ける。
「あー、あの指輪かあ。インチキアイテムだよな」
「そうそう。あの指輪さえ奪い取れれば、体はあのお気楽怪力娘ってだけでしょう? あの変な魔法を相手にどうやって戦えば良いやら……」
 朱陽が反応する。
「あの大厄の半身が身につけてるっていう指輪のことかい。確かに、この木刀の力試しとしては面白そうだねえ」
 鋼音がにやりとした笑みを浮かべる。
「朱陽も、乗るかい? 戦利品は折半でどうかしら」
 マリアが苦笑する。
「あの指輪、分けられるものなんかね? まー、あいつには借りがある。オイラも一口乗せてもらおうじゃないか」
「そうと決まれば、作戦会議と行こうじゃないの。まずはどうやってあの指輪を壊すか奪うかなんだけれど……」
 女子三人がかしましく皮算用を始める。

○   ○   ○

 吹雪が案内されたのは、コンクリートに囲まれた寒寒とした空間だった。
 広さは学校のプールほど。吹雪たちが入ってきた場所から三〇メートルほどの奥行きがあり、壁には妙なものが並んでいる。
 標的、である。人の形を模したプレートの、眉間と、心臓の位置に同心円が描かれている。
「……確かに銃を試せる場所を探してるとは言ったけどさあ」
 吹雪の手には、玩具の光線銃。少なくとも、吹雪その他の者にはそのように見える。
 「こすもるがー」の名を持つその銃。意匠も名前も全てがふざけているが、それでも立派な宝具であるという。
「よく警察が許可出しましたね。一般人に射撃場使わせるなんて」
「……出てるわけないやろ。ばれたら、うちの首が飛ぶ」
 そう吹雪に返したのは、婦警の制服を着たショートカットの女性。歳は二〇代後半と言ったところか。
「香奈ちゃんとかの頼みやさかいな、特別やで……早いとこ、その妙ちきりんな銃の使い方覚えて、ここから出てや」
 彼女の言葉の通り、香奈に紹介をされたのがこの婦警である。
 吹雪は傍らに立つ恋歌を見る。
「……だとさ。早いとこ、この妙ちきりんな銃の使い方を教えてくれねぇか」
「揃って妙ちきりんを連呼しないでほしいですじゃ……それに、これは『弓』と申しましたじゃ」
「だから、どこが弓だ。弦もついてねぇのに」
「一般的な弓とは構造が異なると言うだけで、これも立派な『弓』には違いありませんじゃ」
「んじゃ、『矢』はどこにあるんだ?」
「自動装填されますじゃ。銃身をご覧くださりませ」
 寸胴な円筒形をした銃身の底には、六つの緑色をした明かりが灯っている。それを恋歌が指し示す。
「一発発砲するたびに、この装填ランプが一つずつ、緑から赤に変化しますじゃ。一発分のエネルギーを装填するまでに必要な時間は、約四時間。全弾撃ち尽くした場合は、再装填に約二四時間かかる計算ですじゃ」
 婦警が、こすもるがーをしげしげと覗き込む。
「なんや、存外ハイテクやなぁ。いったい何使ぅてエネルギーを溜めとんのん?」
「八歳様のお話では、『トップシークレット、シェフの気まぐれ謎エネルギーの素』だそうですじゃ」
 吹雪は頭が痛くなるほど深く深く息を吐いた。
「……ちったあその胡散臭さを疑え……。さておき、それが本当なら一日に平均で六発しか撃てないってことか」
 吹雪がこすもるがーを眺める。
 ここを出たら、すぐに東京に戻らなければならない。東京から戻った先のことは……正直、分からない。自宅に戻れるとも思えない。時と場合によっては、すぐに使っていくことになるかもしれない。
 ここで何発練習していくか。ゼロ、と言うわけには行かないだろう。土壇場で使おうとして、発射できませんでした、では意味がない。
 一発ではまだ少ない。二発か、三発か……あまりにも使えない代物なら、それより多い弾数を使うこともあり得る。それだけ、本番で使える弾数が減る。
 では……
「なんだかんだで、悩んでるなあ、吹雪」
 聞き覚えのありすぎる声に、吹雪は顔をしかめる。
 何しろ、自分自身の声である。聞き間違えないほうがおかしい。
「……また性懲りもなく出てきやがったか」
「出るさ。何度でも」
 婦警が瞬きしながら、吹雪を見ている。
「……誰と話しとんのん?」
「や、すんません。ギャグみたいな状況のせいか、幻覚と幻聴が」
 しかしその幻覚、冬真吹雪の鏡像はなお消えず、吹雪の目の前でけらけらと笑っている。
「幻覚たぁ、ひでぇな。これはお前の望んだ状況じゃなかったのか? 晴れてお前は哀れみと、大きな力にも対抗し得る武器を手に入れた。キーパーソンの仲間入り。めでたいことじゃないか」
 うるさい、黙れ。こんな喜劇的な状況じゃ、喜ぶべきものも喜べない。
「……なんだかんだ言って、お前は傍目をえらく気にかけるんだな。ここまで来たら、さらに醜くあがき続けるか、すっぱり英雄になるのを諦めるかの二択だってのに」
 そんなことは、認めたくない。
 吹雪はこすもるがーを構え、狙いを定める。銃口の先には標的に重なるように、鏡像の姿がある。
 鏡像はお構いなしに、喋り続ける。
「俺の言うことを無視するのはいっこうに構わないが、いい加減に腹を括ったほうがいい。お前がそのヘナチョコ銃を見限ったが最後、俺たちは今汝鳥を襲っている脅威を排除するための武器を一つ、永久に失う羽目になる」
 分かってるさ、そんなことは。
 先陣に立てるのは喜ぶべきか。喜ぶべきことなのか。
 これも、全て。
 あのふざけた自称祟り神が、俺たちを弄ぶから!

 ぴにょーん。

 文字で表現すると、まさに「ぴにょーん」としか表記できない音が、射撃場に響き渡った。
 婦警も、恋歌も、唖然として吹雪を眺めている。
 吹雪の視線の先には、首がなくなった彼自身の鏡像があった。声帯も失われたはずなのに、彼はそれでも言葉を紡ぐ。
「果てのない我慢大会に勝つか、全てを放り出してバックヤードに徹するか……お前が選ぶしかないぜ」
 吹雪の鏡像が崩れ去る。その先に見えるのは、首の部分が完全に消し飛んだ標的のみ。
「……おい」
 吹雪は据わりきった目を、恋歌に向ける。
「な、なんですじゃか」
 吹雪は銃を振り上げて、言い放った。
「音を止める方法はないのか。狙撃できねぇだろうが!」

如月(5)

 京都市内の図書館の前。
「あ」
 少々間抜けな声をあげて、八神麗と高槻春菜、そして真琴が入り口で向き合っている。
「……もの調べ?」
「……まあ、そんなところです。八神先輩も?」
「少し、ね。高槻さんたちの調べものは何かしら。分担するわ」
 春菜が頷く。
「私たちは葦矢氏の著作を探してみようかと。地方ではそこそこ著名な方だったみたいですから、何かしら自伝のようなものを書いていたかもしれないと思いまして」
「それじゃあ、私の調べものとはかぶらないかな。そちらはお任せするわ」
 三人は揃って図書館に入る。
「八神先輩は、いったい何を?」
「葦矢といえば葦矢なんだけどね。私の調べたいのは、葦矢の連れていた女性のほう」
「あの人ですか……」
 萬斎が連れていた、強大な法術の使い手のことを、春菜は思い出す。あの時、春菜たちはあの術に対してなすすべがなかった。吹雪による鏡の見立てが確かならば、あれは萬斎の傀儡と化した亡者であるらしいのだが。
「正直、あれに手も足も出なかったのが、不甲斐なくてね。地元だと思って、油断してた」
「……斬れますか、八神先輩。あれを」
「一応、策は考えてあるんだけど。問題は本当に斬って良い相手かどうか、かしら」
 麗は本棚の並ぶ館内を、手で指し示す。
「だから、調べに来たのよ。あのご婦人の正体。相当強力な術者だったようだし、過去の高名な陰陽師を調べれば、正体も分かるかと思って」
「なるほど。葦矢氏ゆかりの方かもしれませんし、もしかしたら連携できるかもしれませんね。お互い、めぼしい資料が見つかったら紹介し合いましょうか」
「そうね、是非お願いするわ。……ところで、高槻さん」
 首を傾げる春菜に、麗が尋ねる。
「斬れるかどうか、って最初に聞いたわよね……あなただったら、どうなのかしら」
「必要とあらば、斬るでしょうね。誰であろうと。……その役割が自分に回ってこないことを願っています」
 真琴が、白い布包みを抱える腕に、思わず力を込める。中には、鷲塚智己から吹雪に託され、さらに真琴へと渡された抜き身の備前長船が収まっている。
 一見臆病に聞こえる台詞ではあったが、真琴も麗も、分かっていた。春菜という人物が、一度戦いになれば容赦なく対した敵を打ち倒す苛烈さを備えた者であるということを。
 例えそれが、萬斎の操り人形となったあの婦人でも、智己でも、瑠璃でも、トウカでも、そして真琴でも。

○   ○   ○

 ずしり、と、重い衝撃が腹部に加わる。
「…………!!」
 都度、呼吸が停止する苦しみに襲われ、何度も咳込む。しかし両腕を屈強な黒服の男たちに抱えられた現状では、腹を押さえてうずくまることすらできやしない。
 朦朧とする智己の耳に、萬斎の声が届く。
「うまいこと加減をしてくださいよ。あまりやりすぎて食事が喉を通らなくなるのも、ことですからなあ」
「な、んで」
 なんでこんなことをするのか、と問おうとする前に、新たな拳がみぞおちに叩き込まれる。
 そこは智己が軟禁されているトレーラーの中。依然どこかへと移動を続けているその荷台の中で、萬斎とその部下たちは、智己に恒常的な暴行を加え始めた。肉を切り裂き骨を砕くような激しいものではなく、傍目には見えない腹部への打撃を、ゆっくりと、長い時間にわたり加え続けるそれは、紛れもなき地獄の拷問だった。
 時間感覚はとうに失われた。食事と睡眠の時間を除いて加えられ続ける暴力に対して、智己は心身共に摩耗しきっていた。
 恐らく、萬斎は智己を自分の意のままにしたいのだろう、と、智己は思う。目と耳を潰された、あの婦人と同じように。しかし、それでも壊れたくはない。自らと同じく、大厄の封印を開く鍵とされた真琴のために。自分らの行方を追っている、他の妖怪バスターたちのために。それらの人々に対する義侠が、智己の、萬斎に対する反逆心を辛うじて支えていた。
「いやはや、感心いたしますね。これだけ痛い目に遭っても、助けの声の一つもあげようとしない」
 ふと気がつくと、萬斎が腰を屈めて智己の顔を除き込んでいる。霞む目で、智己はその人の良さそうな笑顔を視界に捉える。
「その目線。まだまだ抵抗する気まんまんというところですかな。結構。東京に到達するまでまだ時間があります故、ごゆるりとあがいて御覧なさい。元より、こんな乱暴な方法で、あなたが我々の言うことを聞いてくれるようになるとは、ちぃとも思うておりませぬ故」
 疑念。智己は片目を細める。
「なぜか聞きたそうですなぁ……しかしわたくし、わざわざ答を言って差し上げるほど、親切ではございません。それでは、続けてください」
 再び、黒服の拳が智己の腹に打ち付けられる。当の萬斎はきびすを返してコンテナの奥へと消えていく。もはや顔をあげる元気はなく、足から上を見上げることはできない。しかしきっとその顔は、人を傷つけることになんら罪悪感を感じる様子もない、涼しげな表情なのだろう。
 智己はますます、葦矢萬斎という男の考えていることが分からなくなった。

○   ○   ○

 警察機動隊によって封鎖された東京都汝鳥市は、阿鼻叫喚の状態が数日にわたり続いていた。
 電気・水道などのインフラは完全に遮断され、都市としての機能は完全に失っている。しかし高原那須子の洗脳音波によって暴徒と化した市民たちは、今もなお、老若男女を問わず、ただ盲目的に戦い続けている。
 市民同士で。
 市街に突入した機動隊員たちは口を揃えて、市民の異常な状態についてこう説明する。
「彼らは口々に意味不明な言葉を叫び、手にはなぜかゴボウや大根などの野菜を手に、不毛な殴り合いを繰り広げている。我々の鎮圧行動に対し、彼らは恐ろしい力で抵抗し、放水や催涙ガスの散布に対してもまったくひるむことがなかった」
 ……すでに「保護」された市民は三ケタを越えたが、暴動は収まる気配を見せない。事態を重く見た警視庁は、関東六都県に対して警察官の緊急招請を決定している。
 折も折、時期は正月。各県警が交通整備のため、特別配備を実施している真っ只中のことである。

○   ○   ○

「うおおおおおおおお」
「ナスナスウウウウウウ」
「茄子神様のご加護をおおおおナスウウウウ」
 怒声。奇声。意味不明の叫び声。
 それらを口から絞り出しながら、やつれにやつれて眼光ばかりぎらぎらと勢いのある男女が、野菜を手に殴り合う様は、外部から見ていると、はなはだ間が抜けて見える。
 しかし彼らにとって、対する者たちは不倶戴天の茄子の敵であり、手にしたものは百万の敵を葬る最強の剣であった。
 そういう風に、見せている。
 摩天楼を凌駕する桜の巨木の枝にまたがり、七月恋花は不毛な戦いの様子を見下ろしていた。
「幻想は上書きできる、と。お互い信奉する宇宙神様のために戦えて、さぞかし幸せでしょうよ」
 狐狸は幻覚を見せるもの。市民の桜に対する敵意を、お互いに向けてやった結果が、これである。
 恋花は一度肩を落とし、息を吐いた。
「サクヤ、元気?」
 こつこつ、と、木の幹を叩く。
「おかげさまで」
 木のうろが奇妙に歪み、こぶのように盛り上がる。そのこぶが括れ、腕が生えて、次第に人の姿を形作っていく。
 樹皮が目鼻の形に変じ、その目がぱっちりと開かれる。
「……その感じだと、まだまだ頑張れそうね。連中、木に火をかけようとしていたみたいだけれど」
「生木は簡単に燃えませんのよ? 枯葉剤を捲かれた時には、少々参りましたが……まあ、そんなことより」
 樹木と同化した此花咲哉が、恋花を見る。
「元気を案ずるのは、七月宮様ご自身では? 人々に幻を見せる際に、相当の神通力を消耗なさっているはずですが」
「私のことは、どうでもいいわ。それより、どうなの? 下のほうは」
 咲哉は人差し指を頬にあてる。
「あまりよろしくありませんわね。桜があれの妖気をかなり吸い取ってくれているのですが、あれの元気はさらに増しているようでして」
「どういうこと? 大厄が自ら封印を破ろうとしているのは、あのナスビの音に呼応してのことだったはずよ。もう音はやんでいるのに、なお活動を続けていると?」
 恋花の表情が、険しくなった。咲哉は、木花之佐久夜毘売は、力を他者から吸い取る植物の神でもある。天孫降臨の際、ニニギが木花之佐久夜毘売のみを娶ったがために、ニニギの子孫である天子の寿命が短くなった逸話の通り、その力はそんじょそこらの妖怪の追随を許さない。いざとなれば、彼女一柱を以って大厄を封じることすら可能であると、少なくとも恋花はそのように評価していた。
「どうやら、あの音とは別の力が働いているように思えますわ。あれは西方に引かれ、しかも徐々に強まってきている」
 恋花の額によった皺が、いっそうの深みを増した。
「サクヤ。これはひょっとすると、ひょっとするわね」
「そうですね。私も多分、七月宮様と同じことを考えましたわ」
 恋花はついに、目頭を押さえる。
「……まいったわねえ。西の封印、誰かが破ったのだわ。まさか坊やたちがしくじった……いやいや、それ以前の問題か。あっちのはかなり厳重と聞いてたのだけれど」
「私もそう思っていたのですが。……敵はうちにあり、かしらね」
「マジですか。……あっちゃあ、想定外だわ」
 恋花は髪を掻き毟る。
「……派手な活劇になりそうだわ。当初の脚本から大幅書き換えになりそうね。でも、乱入してきた観客のおかげで、主人公はより強く成長するでしょう。
 サクヤも協力してくれるかしら?」
「少々骨ですが……ご助力しましょう。より豊かなメデタシメデタシを迎えるために」
 恋花はごきごきと肩を鳴らす。
「そうと決まれば、私ももう一頑張りしなくちゃね。まずは、厄介な敵役に少々手加減をお願いしなくちゃいけないかしら」

如月(6)

 桜の巨木を都市の中心に臨む汝鳥市内の一角に、崩落したビルの残骸が、うず高く積まれている。
 暴動の最中とはいえ、それによって崩壊したとなれば、ビル自体に構造上の欠陥があったとしか考えられない。しかしその実、ビルが崩れたのは、暴動が発生する直前、那須子が引き起こした爆発によるものである。汝鳥市内の市民は混乱の渦中にあり、その事実を認識している者はいない。
 そのビルの周囲に、数体の人型が群がり、瓦礫を払い除けている。遠目から見れば人間に見えないことはないが、昆虫のような顎を持ち目を持たないその顔は、明らかに人間のそれではない。
「急げ。姫様のご受難だ、一刻の猶予も負かりならん」
 地蜘蛛衆の師団長が、作業を続ける兵たちに檄を入れている。
「……!」
 兵隊の一人が、瓦礫の隙間に何かを見つけ、腕を振る。師団長が、他の兵隊が、一斉に瓦礫の中腹へと群がる。
 暗がりから覗く、何者かの手。
「……相違ない、姫様だ。お救いせよ!」
 ある者は腕に覆いかぶさる瓦礫に手をかけ、またある者は瓦礫の隙間に自らの体を挿し入れる。その場に集った地蜘蛛が総力を結集し、トラックの荷台一杯分はあろう鉄筋コンクリートの山を押しのける。
「う……」
 腕が、うめき声とともにぴくりと動く。
「姫様!」
 師団長が、腕をがっちりと掴み、瓦礫の下から引きずり出す。薄汚れた巫呪姫の姿が、白日の下にさらけ出される。
「きて……くれた……か……」
「いかにも。いったん安全な場所へ移動いたしましょうぞ」
 地蜘蛛衆が、巫呪姫の体を担いで一目散に走り出す。



 干からびた数体の地蜘蛛衆を捨て置き、巫呪姫は一息をつく。
「まったく……高原め、好き放題をやりよって」
 新たな服に着替え直した巫呪姫の背後に、地蜘蛛の師団長が控える。
「ご無事で何よりでありました、姫」
「爆発の際に地蜘蛛が盾となり、また生き埋めの折りにはその亡骸に残る妖力の残澤を食らって生き延びた。救出にまで尽力してくれたそなたらには、感謝の言葉もない」
「恐悦至極に存じます」
「して、戦況はどうなっておる。召還陣の状況は?」
 は、と師団長は頷く。
「市内には暴徒が溢れておりますが、その大半は同士討ちを繰り広げており、市内は混沌としております。されど我らが召還陣は乙、丙、丁のジェネレーター全てが、発動プロセスへと移行可能な状態を死守しております。あとは姫様の命さえあれば、いかようにも」
「結局暴走したのは、高原が細工をした甲のジェネレーターだけか……返す返すも、小賢しい」
 巫呪姫は舌打ちする。
「四方のジェネレーターが完全に発動せねば、召還陣としては不全であろう。今のままでは御大に顔向けができぬ。何か策はあるか」
「恐れながら。乙丙丁のジェネレーターは人ならざるものの妖力を以って動作します。さすれば、同等の妖力を持つあやかしを以って代替とするのが、妥当ではないかと」
「汝鳥市内の妖怪は、あらかた刈り取ってしまったぞ。かようなあやかしをいずこから呼び寄せる」
 師団長は表情を変えずに……もっとも、その顔に表情筋が存在するのか謎であるが……言い放つ。
「姫。今こそ蜘蛛神様においでいただくべき時ではないかと思います」
「蜘蛛神……!」
 巫呪姫が息を飲む。蜘蛛神とはその名の通り、土蜘蛛の末裔である地蜘蛛衆が、回天の際に新たな地上の支配者として召還することをもくろむ存在である。巫呪姫はまさにその蜘蛛神の姫巫女として、この世に生を受けた存在なのだ。
「……よもや蜘蛛神様を大厄召還の触媒に用いることになろうとはな。回天はさぞかし盛大なものになるであろうよ」
「では、姫様」
「うむ。蜘蛛神様を迎えようぞ。他の者にもそのように申し伝えよ」
「かしこまりました」
 師団長が足早に部屋を立ち去る。それを見送ってから、巫呪姫はほくそ笑んだ。
「……ふふふ。ついに回天の時来たれり。あいにくだったな高原よ、そなたが何をやったところで、あやかしの力を糧に大厄は復活する。その時こそ、妾は回天の世の導き手となるのだ。そなたとは違うのだ……!」
 一人ごちて、地蜘蛛の姫巫女は肩を震わせ笑い続けた。

○   ○   ○

 この歳になって思うことだが、度々、私の歩んできた人生はこれで良かったのかと、省みることがある。
 家の定めに従い、その教えに従って今までやってきた。結果、多くの場数を踏み、その過程において、多くの方々にご迷惑をかけてきた。
 我が家系は代々の屈辱と呪いに縛られている。叶うことならば我が代にて、それを終焉としたかったが、それは機運が許さぬようだ。
 結果として、私の、我が息子たちの、孫たちの戦いは続いていくであろう。
 まだ見ぬ栄光を信じて。



「…………」
 春菜は最後のページにまで目を配ると、奥付けにあった著者の名前をもう一度確認する。
 その本を書いた者の名は、葦矢道斎。あの葦矢萬斎の父親にあたる。本人は二年前に他界したようだ。
 本の中身は……少なくとも春菜にとっては……とるに足りない自伝だった。陰陽師としての修業の日々や大きな業績などを若干誇張気味に語った内容で、中身に大厄のことをほのめかす記述は見られなかった。
 しかし最終章の独白の、最後の最後で奇妙な記述に行き当たった。それが先の数行である。
 前章までの華々しい活躍とは打って変わって、何かを謝罪するような、後悔するような書き方である。特に「代々の屈辱と呪い」という言葉が気にかかる。
 やはり萬斎の父親である彼も、大厄の知識を隠蔽し、自作自演の妖怪討伐を繰り広げて来たのだろうか。だとしたら、この記述はそれに対する謝罪の念であろうか。
 息を吐いて、春菜は本を閉じる。
 この図書館の書籍検索システムを信じる限りでは、葦矢の血族に関連すると思われる本はこの一冊だけだ。あまり有用な成果とは言い難い。
 そろそろ集合時間も近い。春菜は本を棚に戻して、周囲を見回す。
 真琴はお手洗いに行くと言って、しばらく席を外している。
 なぜだろう。妙な胸騒ぎがする。
 春菜は自身の荷物をまとめ、足早に最寄のトイレへと向かった。
 扉を開けて、硬直する。少し広めに設計されている洗面所に、人の気配はない。
 次の瞬間、春菜はトイレを飛び出していた。
 人の出入りが少なく、春菜のいた机から最も近い場所にあるトイレである。あの真琴に関して、見つけられなかったということはあり得ない。
「どうしたの、高槻さん?」
「真琴さんがいなくなりました。探すの、手伝ってもらえますか」
 通りかかった麗に一声をかけて、春菜は館内の見取り図を周囲に探した。現在、春菜がいるのは一階。図書館は二階建てだ。
 トイレは各階に一カ所ずつ。中でも二階のトイレは書庫の奥まった位置にあり、わざわざ一階から行くには遠すぎる。
 しかし、春菜には妙な確信があった。静かに、しかし大股歩きで二階への階段を登る。
 真琴が、わざわざ遠い場所にあるトイレを利用する理由は何か。考えられる可能性が一つある。
 例えば、春菜たちに見られたくないようなことをしたい時。
 二階のトイレから断続的に聞こえる、水を流す音。
 扉を、開ける。
 最初に目の前に飛び込んできたのは、毒々しい赤色。
 次の瞬間、春菜は洗面所に飛び込み、真琴の手からむき出しの備前長船を取り上げていた。
 洗面台は、血の海だった。
 茫然としている真琴の顔はあまりにも白く、左手の手首から先を染める赤色が、恐ろしく映えていた。
 まるで、血の赤以外は全てモノクロになったかのように。
「春菜ちゃん」
 真琴の呼びかけを無視して、春菜はハンカチを取り出し、真琴の左腕手首近くをきつく縛る。
「春菜ちゃん」
 尺が足りないハンカチを、無理やり片結びにする。
「大丈夫。血は、派手だけど、すぐに、止まるから」
 と、真琴の声がする。
 真琴の左手首をよく見てみると、なるほど、血が新たに滲み出る様子はない。
 傷は動脈にまで達していなかったのだ。それではこのおびただしい血は、水で傷口を洗ったことにより起こったものか。
「ためらい傷って、あるじゃない? 本当に、自殺しようと、してる人でも、何回か、傷を、つけるんだって」
「真琴さん、喋らないで」
「私も、やっぱり、死ぬのは、無理かな」
 ぐらり、と、真琴が平衡を失う。肩を抱き止め、その場に座らせる。
 当然だ。冗談じゃない。
 誰かが死んで解決なんて結末、誰が許そうか。
 春菜は真琴の首の下にタオルを挟んで仰向けに寝かせると、その場の収拾に取り掛かった。備前長船にこびりついた血をふき取り、布で再び覆い、血で汚れた洗面台を洗う。幸い、出血は大した量ではないらしく、水を赤黒く染める程度で済んでいる。
 馬鹿なことを。試すなんて。
 そんなことをさせないために、皆あがいているというのに。
「そう。そして私が彼女を殺さないために」
 自分自身の声がした。正面から。
 顔をあげると、鏡の中の春菜が、春菜本人の覚えのない笑顔を浮かべている。
「……持ち主が冬真君に決まって、私は用済みでは?」
「彼はかなり不安定な状態だから。代役を選抜しておくのも、悪くはないでしょう?」
 春菜はそれ以降の、幻像の発言を無視することにした。自分自身との会話はあまりにも不毛だと、春菜自身の直感がそう告げていた。
 相手は、雲外鏡によって映し出された、自己投影である。であるから、確かに彼女の言っていることは、自身が潜在的に抱えているものの一部分なのかもしれない。しかし同時にそれは、多かれ少なかれ、誰しもが抱え込んでいるものだ。
「そうやってあなたは揺さぶりに動じない。やはり鏡の使い手としては適任だわ」
 ばたん、と、背後の扉が開け放たれる。
「……高槻さん、これは何事?」
 麗の声に春菜が振り向く。鏡から、目を背ける。
「……真琴さんが、貧血です。手伝ってもらえませんか」

如月(7)

 京都駅。
 大介はむやみに体を動かすことをせず、ベンチに座ったまま思案に耽っていた。彼は頻りにある相手を想定したシミュレーションとイメージトレーニングを脳裏で繰り返していた。
 供馬尊。
 マリアと大介が同時に立ち向かい、まったくひるむ様子のなかったあの相手。現在は半身の状態でありながら様々な要因により、あれは強敵だった。
 第一に、供馬尊がトウカの身体を乗っ取っているということ。いざとなれば、トウカもろとも倒すことに躊躇などするつもりはない。しかし、相手は傍目、欧米のお嬢様にしか見えない。供馬尊がその外見を利用する方向で振る舞い始めれば、十分に厄介だ。
 第二に、供馬尊がジョシュアを連れているということ。いまだ彼が拘束されたままだとするなら、盾に使われる可能性が大きい。少なくともジョシュアは巻き込まれただけであるので、戦いの過程で殺してしまったら、大介のなけなしの良心が痛まないこともあるまい。
 そして、第三に、あの指輪。
 ジョシュアが「一つの指輪」と呼んでいたあの代物が、どの程度の力を持っているのか、大介は計りかねている。まさか、触れた者に電撃を浴びせる程度ではないだろうし。
 飛び道具。近接兵器。あらゆる可能性を考慮してシミュレーションを重ねれば、その回数はおのずと増えていく。
「おい」
「!」
 背後に感じた気配に対して、反射的に拳が出た。
 サワンは乾いた音と共に、それを受け止める。
「……穏やかじゃないね。そんなだと誰も余計に近づかなくなるよ」
「必要ねえし。何か用か」
「そろそろ集合時間だからね、呼びに来た。何やってたんだい?」
「イライラしてたぜ」
「いや、そういうことじゃなしにね……」
 そこで塔子が、サワンを手で制する。
「何にイライラしてたんだ、朝霞?」
「剣研のを乗っ取ってる、けったいな魔法を使う奴にだ」
「ふむ。それは直接やりあったからか?」
「それもある、が。今んとこ奴に一番イライラしてる」
 塔子は思案する。恋花に、地蜘蛛衆に、葦矢に、吸血鬼、そして供馬尊。妖怪バスターが相手にしなければならない敵は多いが、オカルト・ミステリー同好会きっての猛者は、交戦して最も日の浅い供馬尊を最も危険視しているようだ。
「おいおい、そんなんで電車に乗って大丈夫か?」
 吹雪の声に、思考を遮られた。見れば、真琴が春菜に支えられて、吹雪、恋歌らを伴い待合室に現れたところだった。
「やっぱり、一度病院に行ったほうがいい気がするわ。どれだけ出血したかも分からないし」
「大丈夫、貧血は慣れてるから。電車の中で安静にしていれば、すぐに元に戻るわ」
「大事をとる意味もあります。あなた葦矢の一味に狙われてるって分かってる? 市内に入ったら私たちも真琴さんを守っている余裕はないのよ」
「春菜ちゃんたちと一緒に行動するのと、春菜ちゃんたちと離れるのと……どちらが安全かしら?」
「京都に守ってくれる人が、いないわけじゃないでしょう?」
 塔子は口論になりつつある春菜と真琴の間に、近づいた。
「鴉取」
「……はい?」
 春菜が、吹雪が、面食らったように塔子を見ている。
「兄を、救いたいか」
「できることなら」
 塔子は一つ頷いて、春菜を見る。
「電車の中で構わないので、剣術研究会と、オカルト・ミステリー倶楽部両部による合同ミーティングを行いたい。応じてくれるか」
「私は別に構いませんが、他の方が応じてくれるどうかは、分かりかねます」
「一番口うるさいのはこの場に居ないから、問題はあるまい」
 春菜は吹雪と顔を見合わせて、苦笑いを浮かべる。ここで塔子の言う「一番口うるさいの」とは、吸血鬼を血眼になって探している剣術研究会の顧問のことを示しているのは明白だった。

○   ○   ○

「なんと、それは真か!?」
 ネイはバスの運転手の襟首を、容赦なく掴み上げていた。
「あ、あたたた、お、お姉さん、おち、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか! なぜ引き止めなかった、なぜ茶の一杯もおごって時間を稼ごうとしなかった!」
「ひ、引き止めるわけないでしょ。ただのお客さんだよ?」
 そこは大菩薩峠の麓、塩山のバスターミナル。「妾の勘が、奴らはここにいると告げているのだ!」というまったく根拠のないネイの主張により、東名高速道を下りてウォレスらがやってきたのが、この山奥である。
(……うん。その根拠のまったくない自信でラピスらの行方を引き当てちゃうんだから、案外あなどれマセン)
 ウォレスは、ネイと運転手とのつかみ合いを止めに入りながら考える。吸血鬼の残滓が、その匂いを嗅ぎつけたのか。それともネイの野生が目覚めたのか。真相は定かではないが、とにもかくにもウォレスらは瑠璃の行方につながる重要な手がかりを手に入れた。しかも。
「お下げの子なら、外国人っぽい金髪の女の子と一緒だった」
 瑠璃はどうやら、トウカとも行動を共にしているらしい。大厄・供馬尊と吸血鬼。人間の身体を乗っ取る妖怪同士、互いに引かれ合ったのだろうか。
 ネイは歯噛みしながら携帯電話を握る。
「探し物の在り処を特定した。奥多摩に実行部隊を派遣しろ、大至急だ! 中身は化け物だからな、多少手荒なことをしても構わんぞ」
「あー……殺しちゃったら駄目デスよ。アタシの妹も一緒かもしれないデスからね」
「これが手加減なぞしていられるか。我々も追うぞ。登山装備を調達しろ!」
「ちょちょちょっと、アタシらまで山登りするんデスか。下手に追いかけるより車で先回りするべきデスよ」
 ばらり、と、ウォレスは道路マップを広げる。
「国道411号線が奥多摩まで通じてマス。少々迂回路になりマスが、下手に山へ入るよかずっと安全かつ楽に、二人に追いつけるデショ」
「む。しからば車だ。急げ!」
 鼻息荒く、ネイが車に戻っていく。ウォレスもバスの運転手に頭を下げてそれを追った。
(さて、何はともあれ良いニュースデスね。生徒たちにも教えときマショうか……)
 ウォレスは車に乗り込みながら、慌ただしく携帯電話を探した。

○   ○   ○

「供馬尊に戦力を集中したい?」
 新幹線の車内。塔子の提案を妖怪バスターたちは口頭で、心中でリフレインする。
「その通り。汝鳥市内の状況はまったく不明である上に、地蜘蛛衆、葦矢の一味と確実に相対することになる。
 しかし地蜘蛛、葦矢の目的は確実に供馬尊の利用にある。供馬尊を我々だけで止めることができれば、彼らに対して大きく優位に立つことができるだろう。
 どの道、現状の戦力を分散させるのは好ましくない。いずれかに一点集中して、各個撃破を目指すべきだろう」
「それはいいんですが」
 吹雪が手をあげる。
「なんで供馬尊が最優先なんですか。よりによって、一番厄介そうな相手を攻める道理はないと思いますが」
「葦矢一派、そして地蜘蛛衆の最大の武器は、数だ。彼らは間違いなくそれを背景とした作戦を展開するだろう。物量で劣る我々は、いかに個々の質で上回ったとしても、数を前に戦闘を続ければ、やがては消耗し、倒されることになる。
 対して、供馬尊は単体だ。未知の力を使うとはいえ、完全な状態ではない。加えて、我々の手元には、供馬尊を封じるために用いられた法具もある。決して、無謀な戦いにはならない」
「戦ってる間に、どっかが茶々入れてきたらどうします? 俺らの同士討ちを狙われたら、それこそ思う壺ですよ」
「相手は片や拉致監禁の主犯、片や異形の集団だ。白昼堂々と行動できるという点においては我々に分がある。
 加えて、京都から先行しているメンバーに、葦矢をマークしてもらいたいのだが、どうだろうか?」
 香奈が快く、それに応じる。
「葦矢の一門に属する者の人相や、地蜘蛛衆の手口には通じております。早速、連絡しましょう」
 再び吹雪が手をあげる。
「じゃあ、京汝鳥面子にその辺は任せるとして……意図的に忘れてる奴がいたりしませんか?」
「仮に忘れている相手がいたとしよう。それを冬真は脅威だと思っているか?」
 五秒ほど、沈黙。
「……思いません」

○   ○   ○

「いっきし!」
 ビルの屋上で、恋花が鼻をすする。
「……風邪? どこぞの風神様じゃあるまいに。さて……」
 独り言を吐き捨てて、恋花は眼下を見る。
 倒壊したビルの残骸。そこに、暴動などそっちのけで瓦礫をどけている人々が見える。
 市内全域の人間が狂う直前、怪音波の前に聞こえた大きな爆音の音源を辿ったところ、この場所に出くわした。中身を確認せずとも、瓦礫を除けている者の正体が地蜘蛛衆と分かる。
 南光坊の言っていた供馬尊の召喚陣とは、恐らく、ここを拠点としていたのだろう。連中はそれを復旧させるつもりらしい。
 恋花はそのビル跡と、市街中央にそびえる桜の巨木を何回か見比べて、続いてなぜか明後日の方角を、何か所か指さし始める。
(天乃原はあちら……浅間神社は……汝鳥神社は……戎は……よし、分かった)
 封印の力に対抗、消滅させるだけの召喚陣を構築するためには、陣を構築するポイントの距離、方角を精密に決める必要がある。残るポイントの場所を割り出すのは容易だ。
 だん、と屋上のコンクリートブロックを蹴って、隣のビルに乗り移る。
(どうやって召喚陣を動かせるようにするのかは知らないけれども。邪魔させてもらうわよ)
 恋花はビルを次々に飛び移り、目的地へと急いだ。

○   ○   ○

 新幹線の中では、塔子の説明がまだ続いている。
「……ただ供馬尊を最優先にすることについては、一つ問題がある。鴉取に、この方針を了承してもらいたいことなのだが」
 シートにもたれかかるように座る真琴に、注目が集まる。いまだ貧血の症状が残る彼女の肌は、病的に白い。
「……多分この場に智己さんが居たら、きっと言うと思います。『僕のことは気にしないでいいです』って。
 智己さんも大事ですけど、トウカさんも、瑠璃ちゃんも、同じくらい大事なんです。どうか、助けてあげてください」
 塔子は頷いた。
「他に異議がある者は? 居ないか。では、供馬尊戦を想定したフォーメーションの検討に入ることにしよう」
 マリアと鋼音、朱陽がにやりと笑って、無言で拳を合わせる。
 塔子の携帯電話が軽く振動を始めたのは、そんな時だった。



 昇降スペースから戻ってきた塔子が、妖怪バスターたちに告げる。
「良い知らせと、良いと言い切れない知らせがラインバーグ先生からあった。
 供馬尊の消息が明らかになった。まだ汝鳥の外にいる。
 それから、供馬尊には、現在同伴者がいる。多賀野……吸血鬼が一緒だ」

如月(8)

 人気のないトレーラーの荷台の中で、智己はごみのように捨て置かれていた。
 意識を失えば、どれほど楽だろう。しかし絶え間なく打たれ続けた腹の痛みは、智己に眠ることを許さない。
 うわべだけでも、なんでも言うことを聞くとでも言ってやれば、この拷問を止めてくれるのだろうか。いやいや、それでは先輩同級生に申し訳が立たない。そんな葛藤ができる程度には心身共に疲れ果てている。
 ぎい、と、何かが軋む音がして、トレーラーの中に外気が入り込んでくる。それと共に現れる、人の気配。
 恐らくは、葦矢の手の者だろう。またあの恒常的な拷問が再開されると思うと、さすがにうんざりする。
 せめてもの抵抗として、手間のかかる患者であろう。そう思いつつ気を失ったふりをして目を固くつぶっている、と。
 予想外の対応が返ってきた。
 近づいてきた気配は、一人だけである。それがなぜか智己を見下ろしたまま、触れようとしないのだ。
(…………?)
 しばらくして、ぽん、と、肩に手が置かれる。
「ねえ、ちょっと。起きてもらえる?」
 決して強引に起こすわけではなく、肩を軽く叩くだけの優しい覚醒の誘発。しかも、この声は間違いなく。
「…………?」
 うっすらと目を開けて、振り返る。
 懐中電灯の影に隠れて、その人相ははっきりとしない。しかしその姿は、他の葦矢の配下たちと比べると細身である。
 声の高さをかんがみると、間違いなく、女性。
「ごめんねえ、辛いところ無理に起こしちゃって悪いんだけど。これ、飲みなさい」
 頬に、固いものがあたる感触。金属の質感と、不自然な熱量。思わず顔をしかめ、意識がはっきりしてくる。
 どうやら頬に押し当てられたのは、ホットのドリンク缶であるようだ。その女性は缶を自分の両手に戻すと、プルトップを引く軽い音を智己の耳に届かせる。
 彼女は拘束されたままの智己の首を優しく抱き起こし、そのまま缶の縁をその口に近づけた。
 缶の中身を怪しむ智己に、女性が告げる。
「大丈夫よ。変なものなんて入っていやしないから」
 はたして、その言葉を信じて良いものかどうか。……しかし、状況が拒否を許してくれそうにない。毒食らわば皿まで、か。
 恐る恐る、口をとがらせて缶に近づけた。温かい液体が唇に触れる。
 それは一見、なんの変哲もない缶入りのコーンスープだった。混ぜ物がされているような感じもない。
 そのスープを嚥下しようとして、思わず、咳込む。
「ああ、ごめん。飲みにくかったかしら?」
 女性が缶を遠ざける。何をするのかと思えば、その女性は自分で缶をあおり始めた。
 どうせ飲めないなら、自分で飲むということだろうか。そんな風に考えていると。
 唇を塞がれた。
(…………!!)
 女性の口から、生温かいスープが智己の口腔に注ぎ込まれる。
 つまりは、口移しである。異性を相手にそれをなされたことより、その女性がその選択になんら躊躇をしなかったことに、智己は面食らった。
 口に無理やり流しこまれた液体をどうにか飲み下すと、女性の顔が智己から離れて行く。
「……ファーストキスだったかしら? 済まないわね、相手がこんなおばさんで」
「……これも……」
 ひどいしゃがれ声が出た。
「無理に喋らないほうが……」
「これも、あの葦矢の指示ですか」
 暗闇に隠れた女性の顔が、数秒ほど硬直する。
「……気にしないで。これは私の好きでやってることだから」
「無断、ってことですか。そんなことやって、怒られないんですか」
「んー? ばれたらお師匠から制裁を食らうわねぇ。まあ、その時はその時、仕方がないんじゃない? 別に君に対する仕打ちがひどくなるとかはないはずだから、そこんところは安心してもいいわ」
「それじゃあ、葦矢は……」
 どうしてこんなことを繰り返しているのか。それを聞く前にまた口を塞がれる。
 半ば無理やり、スープを口の中に流しこまれながら、智己は考える。
 口ぶりからして、他の黒服と同じ萬斎の門弟であるようだ。しかしそれが、なぜ萬斎に無断で智己を労ってくれるのか、まったく理由が分からない。
 萬斎のやり方に、何かしら不満でもあるのだろうか。実際、彼のこれまでの行動はあまりに強引で自分勝手、かつ計画なく振る舞っているように見える。あの萬斎の操り人形にさせられている婦人にしても、従わせ方が目にあまる非道である。それを見せつけられている萬斎の門弟たちは、よくもまあ黙々と萬斎に従っていられるものだ。
 ひょっとして、萬斎の一派は一枚岩ではないのだろうか。そんな疑念がふと、脳裏をよぎる。
 口元から女性の口が離れる。
「そろそろ、時間がやばいかな。飲み足りない?」
「いえ……」
「内蔵が痛めつけられてるから、気持ち悪くなるかもしれない。でも、なるべく我慢したほうがいいわ。吐くと余計に体力を消耗するわよ」
「……ご丁寧に、ありがとうございます」
 女性は身軽に智己から離れると、懐中電灯を消して代わりにトランクの扉を開ける。
 外の明かりがわずかに内部へ差し込んで、女性の顔が少しだけ見えた。歳は二十代後半と言ったところか、キャリア風に髪をアップに結い上げた、活動的な感じのする人だった。
「隙を見て、また来るから。それまでは我慢よ」
 こちらを見て、感じの良いウインクをして、扉の外へと消える。扉が閉じられたトレーラーの内部が、再び闇に包まれる。
 暗闇の中で、智己の網膜には最後に見えた女性の笑顔が妙に長く焼きついていた。

○   ○   ○

 奥多摩。
 供馬尊と辰之進の二人は難なく峠越えを果たし、奥多摩湖に続く山道を急いでいた。
「大分時間を食った。追っ手が先回りしているかもしれんな」
「何、街の中があのありさまでは体制が整うまいよ。整わない……はずなんだが」
 辰之進が、不意に冷や汗を流し始める。
 供馬尊がそれに尋ねる。歩みを進めながら。視線も動かそうとしない。
「どう言うことだ? 明らかに我々を狙っているぞ。追っ手がつくような痕跡など、残した覚えはないが」
「同様なんだがねえ……まさかこんな山奥にまで網を張ってるとも思えないし」
「考えるのはあとだ。迎え撃つぞ……東の半身までまだかなりの距離がある。あまり消耗したくはないな……」



 そこから一キロメートルほど離れた山林の奥。
 茂みの中から一本の、金属製の筒が顔を出している。人が滅多に立ち入らないこの山奥で、その人工物はあまりにも不自然だった。
 茂みの中では、分厚いスキージャンパーを身につけ、顔をマフラーとゴーグルで隠した男がスナイパーライフルのスコープを覗いていた。
 男は耳につけたインカムに話し掛ける。
「トリニティよりモーフィアスへ。エージェントを発見した。二名以外に、人影はない」
 スコープには供馬尊と辰之進が映っている。
『速やかに標的を眠らせろ。お下げ髪の捕獲を優先するように』
「了解」
 ライフルの撃鉄を引く。スコープで入念に辰之進の足元へと狙いを定め、引き金を引く。
 乾いた音が、一発。
 一瞬ののち、辰之進の右足に、火花が散った。
 命中した、と思った。
 次の瞬間、二人が逃げるように走り出すまでは。
「What!?」
 スコープの中で、供馬尊はおろか、辰之進まで平然と山道を走っている。まるで何もあたらなかったかのように。
「Jesus......」
『モーフィアスよりトリニティへ。何があった?』
「パラライザがエージェントに命中した……しかし、外傷がない。外れたはずがない!」
『落ち着け。銃が通じないケーススタディを思い出せ。あとはネオに任せてその場を離れろ』
「り、了解」
 男はライフルを背に担ぎ、斜面の下に向けて走り始める。

如月(9)

 供馬尊の手にはめた指輪のルーン文字が、青白い光を放っている。
 銃声の方角をちらりと気にしながら、辰之進が叫ぶ。
「完全に私を狙っていたな。恩に着る!」
「今のは何だ? いつの間に、あんな長い射程の鉄砲が発明された!?」
「君が一〇〇年寝てるうちに、技術が進歩したのさ!」
「しかし、攻撃は一発だけのようだな。何が目的だ?」
「さてね。おい瑠璃、君の知り合いにスナイパーがいるのか?」
 瑠璃の精神に話し掛ける、が。
(……いるわけないじゃないですか、そんな人。大体、私がどうやって助けを呼ぶんです?)
「……それも、そうだが。日本の警察は、行方不明者を銃で捕獲するのかい!?」
(だから、知りませんって)
 供馬尊が、辰之進に声をかける。
「おい、人が来るぞ。どうする?」
「助けを求めよう。人の群れに紛れ込めば、おいそれとは撃ってこれまい」
 正面から、数人のハイカーが歩いてくるのが見える。彼らは近づいてくる二人の姿を認めると、異常を感じたのか足を止める。
 辰之進はその目の前に転がり出ると、本来の瑠璃の声を精いっぱい震わせた。
「た、助けてください」
 グループの先頭にいた中年男が、膝を屈める。
「何かあったのかい? 銃声が聞こえたけど」
「私たちも銃声を聞いて……怖くなって逃げてきたんです」
 登山客たちが顔を見合わせる。
「どうする?」
「猟でもやってるのかもなあ」
「一回下に確認しに行ったほうが良くないかね?」
「お嬢さんたちも怯えてるしなぁ」
 ハイカーたちは口々にそう言いながら、供馬尊と辰之進を取り囲む。
 ここで辰之進は、妙な胸騒ぎがした。
「麓まで送っていってあげよう。立てるかね?」
 中年男がにっこり笑って、辰之進に手を差し伸べる。
 差し出された手をとろうとして……視界の隅に、とんでもないものが目に入ってしまった。
 供馬尊に、鈍器のようなものを振り下そうとしている、ハイカーの姿。
「……!!」
 とっさに、腕が伸びた。手首を握られた男が、手にしたスタンガンを取り落とす。
 供馬尊が、飛び跳ねるように動く。先頭にいたハイカーの一人に、当て身を入れようとする。
 見かけは、うだつのあがらなそうな中年男だった。
 それが、とっさに両手を伸ばして供馬尊の体をさばくと、足を引っ掛けて勢いを利用し投げ飛ばす。
 たまらないのは、供馬尊に背負われたままのジョシュアである。
(ひいいい)
 供馬尊が片手を地について体を捻ったおかげで、地面に激突する事態はなんとか免れる。トウカが供馬尊に憑かれてからこのかた、投げ飛ばされたり叩きつけられそうになったり、散々である。
 しかし災難は終わらない。ハイカーが三人、倒れた供馬尊にのしかかろうとする。二人は両腕を極め、一人が背に乗る。
「おのれ!」
 供馬尊は強引に腕を曲げると、両手両足の力を用いて背に乗ったハイカーを振り落とす。そのまま両腕にハイカーを抱え、なんと、立ち上がった。
 指輪が再び、青白い輝きを放つ。
「うおおおおおおお!」
 両腕を振り回し、ハイカーたちのアームロックを力ずくで振りほどく。逆に投げ飛ばされる恰好となったハイカーが、受け身をとって着地する。
 起き上がった供馬尊の後ろに、辰之進が背中を合わせる。
「こいつら、ただ者じゃない! 戦い慣れているぞ」
「今度は私が助けられたな。さっきの鉄砲と同類か?」
「だろうね。どうもやるしかないらしい」
 指を鳴らす辰之進の脳裏に、瑠璃の声が届く。
(今さっき、この人たちの血液を少し抜きましたね?)
「しょうがないだろう、正当防衛! 大事な体を傷物にしてもいいなら、されるがままになってもいいけど?」
(……むう)
 供馬尊が叫ぶ。対するハイカーらは、手に手に杖やスタンガンなどを構え始めている。
「相手は、六人。お互い三人ずつ片づけよう。均等配分だ。行くぞ!」
 弾かれたように、二人が飛び出した。

○   ○   ○

 国道を走る車の助手席で、ネイが携帯電話に向かっている。
「実行部隊が接触したか。よし、よし! あわよくばそのまま確保してしまえ!」
 息を巻くネイを、ウォレスが後部座席から茫然と眺めている。
「そんな簡単に捕まってくれマスかねぇ……相手は完全な状態じゃないとはいえ、強力な力を持つ大妖怪デスよ」
「大丈夫だと思う」
 隣に座るそらが、ぽつりと呟いた。
「ネイたんのパパの私設部隊だし。そこそこ頑張れる」
「たかだか一企業の組織した戦闘部隊が、デスか?」
「私設部隊ていっても、そこらにあるような、チンピラの寄せ集めじゃないし。元陸軍の特殊部隊経験者とか、警官とか、情報局の人とかの腕っ節がいい人をスカウトしてきて、対特殊能力者、対妖怪の対応マニュアルをみっちり仕込んだ生粋のプロフェッショナルと、その人たちの戦闘訓練を受けた人たちの集まりが、リファール商会のいわゆる実行部隊」
 聞けば聞くほどウォレスの顎が落ちていく。何すか、そのドリームチーム。
「あのー、一つ聞いていいデスか? 台詞の端々に、特殊部隊だの情報局だのといった単語があったような気がしたんデスが、いったい、どちらの国の軍人さンで?」
「当然、アメリカの。元自衛隊とか日本の警察とかも現地採用で」
「……まさか、ひょっとしてグリーンベレーとかCIAとかにいた人たちだったりしマス?」
「いるかもよ?」
 ここに来て、ウォレスの顎は完全に落ちきってしまった。何その僕の考えたすごい戦闘集団。ドリームチームどころか、チート級だ。ドリームチートだ。物語序盤から登場してたら、全部丸く収まってたんじゃないか。
(あー、まあ)
 窓の外を見る。山林が高速で後ろに流れていく。
(あの子らの負担が軽くなるなら、何よりデスか。その連中が全部片づけちゃったら、締まらないオチになりそうデスがねぇ……)

○   ○   ○

 妖怪バスターたちの乗る新幹線は、すでに多摩川を越えて都内に入っている。
 この位置になると、みな都心側の窓に注意を凝らすようになる。妖怪バスターたちだけではない。新幹線に乗り込んだ客のほとんど全てが窓からの景色を食い入るように眺めている。
 注目の対象は、新宿副都心のビル群の、さらに向こう側に見える異様な景色。都庁ビルの半分くらいの高さに見える、不自然な桜の木。
 あの桜の木の周囲が汝鳥市だと信じるのは、例え地元である妖怪バスターたちにとっても、困難な行為であった。
「……あそこでみんな、何やってんでしょうね」
 晴海がぽつりとこぼした言葉を、サワンが聞き止める。
「みんな、って?」
「そりゃ同級生の面々に決まってます。あんな様子じゃ、とても受験どころじゃないだろうなぁ」
「呑気だねぇ。元はと言えば僕らの活動に否定的な連中じゃないか」
「それも、高原さんに扇動されてのことじゃないですか。みんながみんな、望んでそうなったわけじゃない」
 サワンはそんな晴海を眺めて、苦笑する。まあ、彼らしいといえば彼らしいのだが。
 一方、香奈が周囲に確認する。
「皆様、すぐに東汝鳥へ向かわれますか?」
「そりゃあ、いつ供馬尊がやってくるかも分からんし」
「大荷物で汝鳥に乗り込むのは骨でしょう。先に荷物を置いていきたいのですが」
「それなら、コインロッカーで十分だろう」
「いえ。こちらですでに、拠点を確保しております」
「拠点……?」

○   ○   ○

 見慣れたはずの都心の光景は、視点が変わるとまったく違うものに見える。
 いつごろ見た光景だろうか。あれは確か、中学時代の社会見学の時に、都庁の展望台に上った時以来だったか。
「……などと感慨に浸るのは後回しにしておいて、だな」
 吹雪はテラスから振り返ると、両腕を広げる。
「いくらなんでも、これはちょっと頑張り過ぎじゃねえ?」
 と、大理石で固めた二〇畳ほどのリビングを指し示す。しかし問われた香奈は平然とした顔で。
「あ、経費は京都側が負担しますので、ご心配なく」
「いや、そういう問題ではなく……そりゃ、うちらが払えってんなら、ふざけんなだけどさ」
 都内ホテルの最上階にある、高級スイートルーム全室。それが、香奈の言うところの「拠点」だった。
「身の丈に合ってないと思うんだけど。こう言うところはできれば、楽しい休日に使わせてもらいたいんだがね」
「東汝鳥は現在も、封鎖が解かれていないようです。そういう状況で皆さんが居住環境を損なわないようにという、私どものせめてもの配慮ですわ」
「……布団が柔すぎて余計にイライラするぜ」
 ぽつりと漏らした大介の一言は、全員の弁を肩代わりしていた。
 苦笑を浮かべる妖怪バスターたちの耳に、扉がノックされる音が届く。
「どなたでしょうか? はい、ただ今」
 香奈が応対に出る。ドアの前に立っていたのは、一人のホテルマンである。
「お客さまに、メッセージが届いております」
「はい、ご丁寧にどうも」
 香奈は差し出された封筒を受け取りながら、様子を見るように背後を振り返る。
 みんな、心当たりがない。
 封筒の裏にはただ一文字、アルファベットの「L」の文字が記されている。その他、誰にあてたものかを明記するものは、何もない。
「……開けても、よろしいですかね?」
 香奈は一度封筒を明かりで透かし見てから、中身を取り出す。
 中に入っていた手紙を開いてその中身を一読し、香奈の表情が一変する。
「……何が書いてあった?」
 塔子が香奈から手紙を受け取り、表情を険しくする。
「……いったい誰が、こんなものを、我々に?」

○   ○   ○

 奥多摩。
 登山客らしき服装をした男たちが数人倒れている。めいめいが体のどこかを負傷しており、まったく動かない者も、苦悶のうめき声をあげる者もいる。
 そのうちの一人が、地面に這いつくばったまま携帯電話を探る。短縮番号を打ち込むと、通話口に告げる。
「……ネオからモーフィアスへ。エージェントの確保に失敗した。だが、発信機の取り付けには成功した」
『上出来だ。ザイオンから戦闘データもあがってきている。すぐにネブカドネザルをよこすから、その場で応急処置を済ませて待て』
「了解」

如月(10)

 ぎい、と扉が開く音に、今度はいち早く反応する。
 目を向けた先に立っていたのは、先日顔を見せた女性のシルエットだった。
「あら。ずいぶん反応が早くなったわね」
「おかげ様で」
 彼女が拷問の合間にお忍びで智己のところへやってくるのは、すでに数度に及ぶ。一度一度の時間は短かったが、その間に軽く話を交わす程度にはうち解けていた。
「打ち身の薬、仕入れてきたから。これで当面の痛みは我慢してもらえる?」
「ばれませんかね?」
「塗り薬だから、大丈夫だと思う。これからちょっと上着を脱がすからね?」
「ええ?」
「恥ずかしがらないの。女の子じゃあるまいし」
 シャツのボタンを外し、下着をまくる。赤黒い鬱血が智己の素肌を不気味な極彩に変えている。
「ひどいもんだわ。まるで女の子へのいじめみたい」
「そんな子が、いるんですか」
「少女漫画とかだと、結構定番じゃない?」
 そう言って、女性は智己のあざに軟膏を塗りつける。
「…………!!」
 痛い。目の前に火花が散るほど痛い。黒服たちによる殴打の重い痛みとはまた別格だ。全身に電撃が走ったような衝撃である。
「少ししみるけど、我慢してて。ハンカチ、噛む?」
「……いや、なんとか。なんか面白い話とか、あります? 今どの辺りにいるのか、とか」
「そうねえ……」
 智己はその女性と会話を重ねるうちに、その素性について、いくつかの情報を得るのに成功していた。
 萬斎に弟子入りしたのは、高校を卒業した直後で、かれこれ十年近く師事しているとか。
 いまだに下っ端みたいな仕事が多くて、いつになったら陰陽師らしいことを教えてもらえるのか、やきもきしているとか。
「あの葦矢という人は、どんな術を使えるんですか?」
「人心掌握にかけては、天才的よ? だから多くの弟子が、あの人についてきている」
 若干質問の内容と回答が食い違ってはいるが、うまく伝わらなかったのだろうと、納得する。
「それじゃあ、こんな誘拐みたいなことをして、反発する人とか、いないんですか」
「いない、いない。みんなお師匠様に心酔しきってるからねえ。さしずめ、マインドコントロールだわ」
「マインドコントロール……」
 洗脳。
 そういえば、烏丸神社で妖怪バスターを打ち倒したあの婦人も両目両耳を潰されていながら、よく萬斎に従っていられるものだ。
 こうやってことさらに智己のことを痛めつけるのも、やはり洗脳の一環なのかもしれない。
 冗談じゃない。誰があんな奴の言いなりなんかに。
「はい、終わった」
 ばしん、と腹をはたかれたのが、格別に効いた。悲鳴をこらえているうちに、まくり上げられた下着を無理やり下ろされる。
「どんな感じ?」
「薬を塗られたところがすごくひりひりします……」
「浸透するまでは我慢ね。散々殴られたあとなら、耐えられるでしょう?」
「まあ、確かに」
「隙を見て、また様子を見に来るから、それまでは我慢していて頂戴ね」
 女性がトレーラーを足早にあとにする。暗くなったコンテナの中で、智己は痛みに耐えながら考える。
 萬斎は自分を洗脳して何をやらせるつもりなのだろう。彼は智己ら兄妹が、供馬尊の封印を開く鍵であると言っていた。と、なると。封印を解くための何かを自分にさせるつもりなのか。
 ……つくづく、烏丸神社での自分の度胸のなさを悔やむ。あの時自分が死んでいれば、萬斎の洗脳を受ける必要すらなかったのだ。
 このまま術中にはまるのは避けないといけない。助けが来ることを信じて、今は耐え忍ぼう。
 こちらにも重要な後ろ盾ができたことであるし。

○   ○   ○

 電車は、汝鳥手前の駅で折り返し運転をしていた。
 警察車両と警官が、汝鳥市内に続くあらゆる道にバリケードを作り、侵入を遮っている。しかしそのバリケードは汝鳥の外ではなく、内側に向いているのが特徴的だ。それが汝鳥に人を入れないようにするために築かれたものではなく、汝鳥から何かを外に出さないようにしているのだと分かる。
 妖怪バスターたちは、ビルの影から遠巻きにその様子を眺めていた。
 朱陽がその様子を見て、ため息をつく。
「ばっちり、塞がれてるねえ……あれじゃ確かに、家には帰れそうにない。ホテルを借りたのは正解、か」
 鋼音がそれに応じる。
「それどころか。私らばっちり保護対象じゃない? 行方不明の汝鳥市民だし」
「まあ、警察とことを構えなきゃ済む話だしね。幸い、私らの最初の目標は市内じゃない……」
 聞き覚えのある男の声が聞こえてきたのは、その時である。
「どうやらお困りのようだね、妖怪バスター諸君!」
 大仰な口ぶりだけでも、その正体はおおむね予想できる。とりあえず、付き合いも兼ねて顔を向けてやる、と。
 ビルの裏路地に立つ男が二人。一人は腕組みしてふんぞり返り、もう一人は少々恥ずかしそうにそっぽを向いている……が、その表情が妖怪バスターたちに知れることはなかった。彼らは二人とも、なぜか頭に、両目にあたる部分に穴を開けた紙袋をすっぽりと被っていたから。
 塔子があきれ交じりで彼らに告げる。
「……わざわざ正体を隠す意味があるのか、南光坊?」
「否! 身共もとい我々はそのような名前ではない。我々は謎の覆面戦士アルファとベータである! 妖怪バスター諸君、混沌を極める汝鳥市によくぞ戻ってきた!」
「だから自分で『謎の』とか言うな。芸風がワンパターンだ……最初に断っておくが、今日は汝鳥に入るつもりはない」
 腕組みをした謎の覆面戦士アルファの肩がかくんと落ちる。
「何!? ちょっと待て、そこは勇ましく汝鳥市内に突撃とかではないのか? せっかく市内への抜け道を確保した我々の苦労が台無しではないか」
「ご好意はありがたいのだが、今回の目的は別にある……そうだ、南光坊」
「だから私は南光坊という名前ではなく」
「では、覆面戦士アルファから南光坊へ、伝言をお願いしたい。京汝鳥の封印が解かれ、供馬尊の半身が解き放たれた。実行犯は葦矢萬斎と、その一味だ」
 覆面戦士アルファの様子が一変する。腕組みをほどき、若干身を乗り出して。
「……葦矢?」
「我々はこれから、その供馬尊の半身を倒しに行く。そこであなたには、南光坊にこう伝えてもらいたい。葦矢萬斎もまた汝鳥に向かっている。彼の者について何か知っていることがあれば、教えてもらいたい、と」
「…………」
 覆面戦士ベータが、振り返ってアルファの様子を見る。彼は黙り込んだまま、動かなくなった。
 よく見ると、その両の拳は固く握られ、軽く震えてすらいる。
「……用件はしかと承った。もしもその南光坊とやらと相見える機会があらば、しかと伝えておくことにしよう」
 覆面戦士アルファが背を向ける。ベータは一瞬その様子に戸惑った様子を見せたが、軽く妖怪バスターたちに手をあげると、すぐにその背中を追う。
 二人の変人の背中を見送りながら、香奈が塔子に尋ねる。
「あの、今の方々はいったい……? それにあの二人組のお一方は、確か」
「ああ、お察しの通り。恐らく鬼子の相馬小次郎だ。それからあちらとは初対面だったかな、あれが南光坊だよ。『御大』に命令されて汝鳥市内の封印を荒らしていたが、その御大を裏切り、我々に味方してくれるようになった」
「では、御大とは、やはり」
「今の態度を見れば、間違いないだろうな。御大の正体こそ、葦矢萬斎だ……。そして奴は間違いなく、地蜘蛛衆とも結託している」

○   ○   ○

 汝鳥市郊外にある一件の雑居ビルに、一台のトレーラーが乗りつける。
 その後部ハッチが重々しく開け放たれ、数人の男が積み荷を慌ただしくビルの中へと運び込み始める。
 萬斎はその様子を後目に悠々とトレーラーから降り立つと、ビルの管理人に軽く頭を下げて、ガレージからビルの中に入る。
 一人の無表情な男がガレージの奥から現れて、萬斎に仰々しく頭を下げる。
「お待ちしておりました、御大」
「ご苦労様。ここには関係者しかおりませぬ。その窮屈なものは外しておしまいなさい」
「お気遣い、痛み入ります」
 男は再び萬斎に一礼をすると、自らの顔に手をかけ、そのまま引っ張りにかかった。めりめりと音を立てて彼の顔の皮は破れ始め、その下から地蜘蛛の顔が現れる。
「遠路はるばる、よくぞ東汝鳥までご足労いただきました。我ら地蜘蛛衆、御大よりいただきましたる大恩により、大厄の復活に力を貸しましょうぞ。安全に東汝鳥にお入りいただくため、すでに地下道の準備を整えておりまする」
「さすがは地蜘蛛衆、仕事が早いですな」
「土蜘蛛の血統たる我々にとって、土の下は魚の水中を泳ぐが如き場所にござりますれば」
「それで、状況は?」
「あまり芳しくありませぬ。大厄の召還陣として準備をしておりましたジェネレーターの一つが、媒介としておりました妖怪の反乱により、破壊されましてございます」
「なんと。それは確かに悪い知らせですな……現状で発動の目処は立ちましょうか」
「不運にもジェネレーターの甲は全壊し、復旧は不可能かと。されどご安心を。巫呪姫を贄として、蜘蛛神様に降臨いただき、ジェネレーターの代役を担っていただきます」
 と、確かに地蜘蛛はそう言った。地蜘蛛衆の首魁であるはずの巫呪姫を、呼び捨てである。
「おお、ついに呼びますか。先に呼んだのは、何年前でしたかな」
「ちょうど六十年前にござります。先の大戦のいざこざに紛れ、京に残る証人を一掃する役務を負いました」
「ふふ、すみませんな。前回といい今回といい、あなたがたの祭神に踏み台の役を任せることになります。私もほとほと大罪人です」
「全ては、我らの悲願である回天を現世に導かんがため。回天により流される血を捧げれば、蜘蛛神様も怒りをお鎮めになりましょうぞ」
「新たな姫巫女の母体は、お決まりですかな?」
「この東汝鳥に来て以来、候補は数名。御大のご助力をいただければ、確保も容易かと」
 萬斎の脳裏に、数人の少女の顔が思い浮かぶ。それは香奈や麗、妖怪バスターの中でも特に優れた霊力を持つ女性たちの姿だった。
「よろしい。協力いたしましょう。……ふふふ、しかしあの姫巫女も哀れですなぁ。やはり、自身に人の血が半分混ざっておるとは、知らんのでしょう?」
「彼の娘は、赤子の頃より我らの中で、母親の顔すら知らずに育ちました。自らを選ばれし地蜘蛛の姫であると、心底信じきっておりまする。この度の召還に於かれましても、己の身の上を知らぬままに、蜘蛛神様の最初の贄として殉じていただくことになりましょう」
 黒服の男が、萬斎の脇に歩み寄る。
「お師匠様。奥方様に、託宣の兆しがございます。大厄の所在が特定できたのやもしれません」
「なんと、これはいかん。それでは君、市内へ入る手はずを整えておいてください」
 萬斎は地蜘蛛と別れると、トレーラーに向けて戻り始める。

如月(11)

 奥多摩湖の湖畔に沿う車道を、少女二人がとぼとぼと歩いている。
 ハイカーを装ったリファール商会のコマンドから奪った杖をつきながら、供馬尊がぼやく。
「まったく、予想外だ。まさかここまで常人を相手に手間取る羽目になるとは。おかげで大分魔力を消耗してしまったぞ」
 その隣を歩く辰之進は、幾分足取りが軽い。
「うん、近代戦の恐ろしさを再認識したよ。それにどうやら、まだマークは外れていないようだよ」
 辰之進の研ぎ済まされた感覚は、五百メートルほど離れて彼らに追随するリファール商会コマンドの姿を確かに捉えていた。引き返して逆襲に転じるのは難しい距離に、つかず、離れず。
「君はいいよな、真祖。あの活きのいい兵士の血液を、どさくさに紛れてたっぷり吸えただろう? 作戦立案者の責任をとって、状況を打開してもらえんものかね」
「そうだねえ、いい加減つきまとわれるのも不愉快だし、そろそろ、撒こうか? ただ、正面から来てる連中をどうにかあしらってから、ね」
「やれやれ、まだ来るか。今度は……人外が二匹、か」
 待ち伏せるように現れたその一群を見て、供馬尊はため息をついた。一匹の大型犬を連れた少女が一人。



 美音子が大顎に告げる。
「ロートルの鼻にしちゃ、頑張ったじゃないの。こんな山奥であいつらを見つけられるとは思わなかったわ」
「いや、それほどでも。それより旦那がた、ずいぶん気が立ってるようでござんすよ。あたしとしちゃ、とっととトンズラこきたいところなんですがねえ」
「逃げても、いいのよ? 私もそのつもりだし」
「残念ながら、そういうわけにもいきませんで。短い間とはいえ、苦楽を共にしたお友達の無事を、確かめなければいかんのですよ」
 その大顎の声を、供馬尊に背負われたままのジョシュアが聞き止める。
「お、大顎君。まさか君が来てくれるとは」
 それをさらに供馬尊が耳にする。
「なんだ小さき者。お前の知り合いか?」
「そうともさ。だから手荒な真似をするのはやめてくれないか」
「残念ながら、あちらの態度いかんによるな」
 一方、辰之進には瑠璃の魂が声をかけている。
(藤間さんだわ……今度は、血を吸うのは許しませんから)
「吸いやしないってば。知り合いなんだろう?」
 四人の妖怪が、すぐ間近で向かい合う。
「……土着の妖怪変化が、我々にいったいなんの用だ? 我々は急いでいる。用件は手短にお願いしたい」
 美音子は二人の姿を上から下まで一通り眺める。
「ずいぶん疲れてるっぽいじゃない。ここに来る前に、大方人間たちと一戦交えて来たとかかしら?」
「お察しの通り。時代が変わっても連中の獰猛さは何にも変化しちゃいないな。哀れんでくれるかね」
「お察しいたしますわ。本当、あいつらは容赦がないから、その日の寝床を見つけるだけでも大変。かく言う私も今の居場所に落ち着くまで、ひどく時間を費やしたしね」
 大顎が不思議そうに、美音子を見上げる。
 予想外に友好的な対応だ。まさか似た者同士妖怪同士、迎合しようという意図だったのか。
「話が分かってくれる者がいると、助かる。それでは何かね、我々に協力してくれるためにここまでやってきたのかい」
「ええ」
 美音子が即答する。何かを言いたげに大顎が美音子を見るが、彼女はそれを、手で制する。
「少なくとも私は、お二人に忠告をしたくてやってきたのですわ。いにしえの大妖怪さん。
 今後とも人間たちは、あなたたちの力を恐れ、隙あれば戦いを挑んでくることでしょう。だから」
 美音子は一つ大きく、息を吸う。
「どちらかを選びなさい。
 おとなしく人間たちに退治されるか。
 それともその体を捨てて、国外に逃げのびるか」
 供馬尊が、辰之進が、一斉に凍りつく。
「……なんだって?」
「日本語が分からなかった? 詰まるところ、不毛な戦いを繰り返す前に、日本から出ていけと言っているのよ」
 大顎がため息をついて頭を下げる。
 しばらくの沈黙のあとに、ぱちり、と、空気が弾けるような音がした。
「……なんの冗談だ?」
 美音子と大顎は、放電を始める空気から、少しずつ後ずさりを始める。
「冗談なんて、言うつもりはないわ。十分本気」
「ふざけるなよ……言うに事欠いて日本から立ち去れとは。私たちは自分からなんら人間たちに危害を加えていないというのに。それを、君たち土着の妖怪までもが邪魔者呼ばわりしようと言うのか?」
「別にあんたたちが日本人か外国人かなんて、私にとっちゃどうでもいいことよ。ただ一つ問題なのは、あんたたちがあまりに強力すぎる妖怪だってこと。
 神として奉られるには、十分すぎるほどのね」
「神、だと……?」
 辰之進が進み出る。
「神と呼ばれるには抵抗があるが、君の言い分は理解できる。
 ただ、この日本は、八百万の神が住まう国だろう。仮に我々でも神になれるとして、どうして迫害されるような仕打ちを受けなければならないんだ?」
「あら、ご存じない? 日本に来てずいぶん長いみたいだけど、肝心なことは知らないのね。この国で神として奉られるっていうことはね。閉じ込めておくってことなのよ。その強力な力を、外に逃がさないためにね」
 一瞬、辰之進が言葉を失う。
「……閉じ込める?」
「神社にせよそう。寺院にせよそう。あれは神様の住む家みたいなものだなんて言っている人間がいるけど、実際は違う。あれの実態は、牢獄。神や仏を幽閉する牢獄。そうやって人間は神を捕まえておくのさ。外に勝手に出ていって、悪さを働かないように。人間を祟ることのないように」
 思わず、辰之進が語気を強める。
「だから、危害を加えるつもりはないと、何度も何度も言っている!」
「あんたがそれを望もうと望むまいと、力のありすぎる妖怪っていうのは、存在そのものが災厄なんだよ! どんなにあんたが人間に害を与えなかったとしても、あんたの力を求めて阿呆な人間たちが群がったはずだ! そして奴らは、あんたらの思惑なんてお構いなしで争い始めるのよ。自分に少しでも、あんたらの力を取り込もうとするためにね。
 神を閉じ込めておくってのは、そういうことよ……この国の人間は、これまでそうやって八百万の神を受け入れてきた。良いのも、悪いのも、全てひっくるめてね。それで三千年近く一つの国であり続けられたんだから、これからもずっとそうでしょうよ」
 美音子が一句一句の言葉を紡ぐごとに、辰之進の顔から血の気が引いていく。
「それでも、それでも、私は……渡来した当初は受け入れられていたのに……」
(だが、最終的には封印された。違うか?)
 脳裏に、大黒天の声が響き渡る。
(まあ、その猫又の言うことが正しいってことさ。かく言う俺も渡来の神だ。これでも印度じゃいっぱしの破壊神だったが、今じゃ丸いもんだろう?)
「あ、あんたが……?」
(今や社に祀られることを由として、外を出歩く必要ができた時も、瑠璃という器を必要とする。俺だけじゃない。七月宮も此花も、多かれ少なかれ当代の人間たちにとっては脅威であったからこそ、その身を封じられたのさ。今のように、我が物顔でほっつき歩いている状況こそが、異常な事態なんだよ)
 辰之進が頭を抱え、その場に膝を突く。
「そんな、馬鹿な……馬鹿な……」
 崩れ落ちた辰之進を、美音子が見下ろす。
「なんだかよく分かんないけど、理解できた? 同じ妖怪のよしみで私は見逃すけれども、人間どもは寛容じゃない。じきにあいつらは手に手に武器を持って、あんたたちを封じにやってくるでしょうよ。あんたらにできるのはおとなしく退治されるか、おとなしく逃げのびるかの、どっちか。でもその体で外国に逃げたら、あいつらは地の果てまであんたらを追っていくでしょうよ。だからその体をとっとと離れろと」
「黙れ」
 その一言と同時に、全身を突き刺すような殺気が膨れ上がる。美音子も大顎も、さらに数歩の撤退を余儀なくされる。
 供馬尊はその中心で、全てを噛み殺すかの如き目で、美音子を睨み据えている。
「忠告というから、どんな話かと思えば……。逃げるか倒されるか選べなどと、そんな忠告をはいそうですかと聞き入れると思ったか」
「紛れもない、事実よ。従わなければ、飲み込まれるだけだわ」
「聞き入れるに値しない。貴様も、こんな猫の戯言に惑わされるな」
 供馬尊は辰之進の腕を引き、そのまま美音子らに歩み寄る。一瞬、大顎が身構えたが、彼らは意に介さずにその脇を通り過ぎる。
 美音子が供馬尊を、横目で睨む。
「あくまで修羅道を行こうってのね? 後悔することになるわ」
「どの道半身を残したまま、この日本を離れることなどできるものか。それに、貴様の言い分には肝心な選択が抜けている。我々がかかる人間どもを全て撃退すれば良いのだ」
「提案する必要がなかっただけよ。そんなの、無理だから」
 供馬尊が目を見開き、美音子に振り返る。
「まさか、本気で勝てると思ってるの? 一人一人の力は大したことがなくても、数が多くて、知恵も働いて、自分たちの正義にはとっても貪欲で、慈悲の心を一切合財捨てられる連中を相手に、本気で勝とうと思ってるの? あんたはそうやって、百年前はものの見事に封印されたのでしょうに、それから学ぶことは何にもなかったわけ?」
「……やってみなければ、分からんこともある。少なくとも百年前の私は孤立無援だったが、今回は違う」
 供馬尊と辰之進が、その場を去って行く。
「……せめて、ジョシュア君は置いていってもらえないかしら?」
「彼は人質だよ。そう簡単には手放せない」
 残された一人と一匹は、そのまま遠ざかる二人の魔人を見送った。
 大顎が、ぽつりと感想を漏らす。
「いやはや、負けフラグがビンビンに立っちまってますねえ。まあ、お世辞を抜いたとしても旦那方があのお二人に負けるとは、到底思えませんが」
「珍しくも同感だわ。つまらない意地とプライド捨ててあいつらに助命を請えばいいのにね。案外あいつらだったら、まともな処遇を用意してくれるかもしれない」
 大顎が顔を歪める。
「そいつぁ、全殺しのところを半殺しで許してやるとか、そういう感じのものじゃないですか」
「……例えそうだとしても、よ」

如月(12)

 汝鳥市内の雑居ビル。あるフロアの内部を、恋花が影に紛れて歩いている。
(こりゃまた……大がかりなシステムを作ったものだわ)
 林立するカプセルの列を眺めて、ため息。どのような構造か、これを使って地蜘蛛衆が何をしようとしていたのかは、おおむね理解した。汝鳥崩壊の直前に響き渡ったあの音波は、この施設を利用しようとした那須子の暴走であったことも。
(これに加えて似たような施設があと二カ所、か)
 完全に破壊するのは至難の業だ。しかし、手をこまねいているのも性に合わない。適当に中央にある装置の回路を組み替えておけば邪魔にはなるか。
 早速作業に取り掛かろうとしたところで、背後の扉が開く音がした。反射的にその場を飛びのき、カプセルの森の中へと身を隠す。
 開け放たれたドアの最前面に立っていたのは、巫呪姫であった。彼女は背後に数十人の地蜘蛛衆を引き連れて、通路を通り過ぎていく。
(ふむ)
 物々しい光景だ。恐らくは、このままいずこかへと出るつもりなのだろう。
(すると、やっぱり……あの崩壊した陣かしらねえ)
 なんらかの方法で陣を再生させるつもりであるのは、間違いない。恐らくは以前の戦闘で召還した巨大蜘蛛のようなものでも呼び出して、妖力の足しにするつもりなのだろう。
 と、なると、やることは決まっている。追って妨害、だ。
 地蜘蛛衆たちが通路を通り抜けて、そのままフロアをあとにする。恋花もそれを追おうとして、ふと思いとどまり、立ち止まる。
 どうせ行き場所は、分かっている。ならば。
(ちょいとこちらに仕掛けをしてから、あとを追おうかしらねぇ)
 にやり、と笑って、恋花は背後にそびえるジェネレーターに目をやった。

○   ○   ○

 国道を走る車の助手席で、ネイが再び吠えている。
「取り逃がしたぁ? 馬鹿者、それで済む話があるか! 現在の居場所はどうなっている!」
 がなり立てるネイの背後で、ウォレスが苦笑いしている。
「突破されマシタか。相手が悪かったかもしれマセンね。……しかし、ピークは過ぎたとはいえ戦闘のプロ集団がぶつかってもこのありさま。さすがに生徒たちにはきつい相手かもしれマセン。ねえ、そう思いませんか、みなと……?」
 声をかけようとしたそらは、ウインドウにもたれかかりながら携帯電話をいじり回していた。
 どうやらメールを打ち込んでいるようである。ワンハンドでボタン操作している割には、結構速い。
「どちらに連絡してるんデス?」
「関係者」
 そらはウォレスに見向きもせずに、携帯電話のボタンを連打しながら答える。
「例のフォローデスか。今度はどのような用件で?」
「実行部隊が負けちゃったから、もっと強いのを呼ぶの」
「も、もっと強いの!? いるんデスか、まだ」
「いるには、いるよ。でこぼこ揃いの傭兵部隊だけど」
「…………?」
 かかかかかかか、かちり。そらはボタン連打の一環として送信ボタンを押す。

○   ○   ○

 ひゅん、と、大介の耳元で、風音が鳴る。
「!?」
 とっさに、手が伸びた。まさに大介の頭上を通過しようとしていたものが、彼の手の中に収まっていた。
「……古臭ぇやり口だな。イライラする」
 大介が手にしていたのは、一本のボウガンアローだった。しかしその矢じりはゴムのカバーで覆われており、殺傷力はないと知れる。
 そしてそのアローには一枚の紙が、こよりのように結び付けられている。いわゆる、矢文である。
 大介は紙をアローから抜き取ると、開いて中身を一読する。
「なんの手紙だ?」
 背後から覗き込んだ塔子に対し、大介は無言で手紙を渡す。
「ふむ、これは……供馬尊はどうやら八王子を通過して、まっすぐこちらに向かって来ているらしい」
 香奈が怪訝な顔をする。
「やはり、先ほどホテルにメッセージを送ってきた方と同じでしょうか?」
「だろうな。正体についてもおおむね察しがついている。人っ気の少ない場所を狙って、供馬尊と接触しよう。最悪、戦闘になる可能性も考慮する」
「鵜呑みにしてよろしいのでしょうか? 正体が分かっているということですが、お知り合いですか?」
「知り合いだが、知り合いではないと思う」
 塔子は紙を開いて、香奈に見せる。右下に書かれていたのは、小文字の「y」。
「恐らくこの次は『p』『h』『a』『r』『d』と続くのだろう。つまりは、Lyphard(リファール)、だ」

○   ○   ○

 汝鳥市内。
 崩壊した雑居ビルの、瓦礫の上に地蜘蛛衆が整列している。
 それを見下ろす隣接ビルの屋上に、恋花が降り立った。
「ぎりぎり間に合ったわね、と。さて、何が始まるか見物と洒落込みますか……ま、あいつらの儀式なんて、大方察しがつくけれども」
 整列した地蜘蛛衆の先頭に、巫呪姫が立っている。それを見下ろして、恋花は目を細める。
「あの子には、少々痛い目を見てもらうことにしましょうか。邪魔に入るのは、その後でも十分」



 ビル周囲の人払いを済ませ、巫呪姫が腕を振り上げる。
「今こそ! 我ら、回天を招かん!」
 地蜘蛛たちが一斉に地面へ跪き、拝むように両手を組む。
 巫呪姫の手には、一本の短剣が握られている。
「この地に災厄を導くために! 幾万の遺骸をこの地に積み上げるために! 尊き蜘蛛神よ、この地に来れ! 稀なる姫巫女の血を汝に捧げ奉るが故に!」
 ひゅん、と、短剣が唸り、巫呪姫の手首に一筋の傷がつく。たちまちのうちに真っ赤な血液が溢れ出し、地面にしたたり落ちる。
 巫呪姫は血の流れる自らの腕を再び天高く差し上げると、自らの血で体が汚れることもいとわず、叫び続ける。
「蜘蛛神よ、ご覧あれ! あなたの姫巫女の血が血へと落ちて参る! 全てを大地が吸いつくすその前に、来たりて食らわれるが良い!」
 最初にやってきたのは、ずん、という衝撃。
 それこそまさしく、地獄に眠る蜘蛛神が、姫巫女の血の匂いに引かれて体を揺り動かす最初の地響き……ではなかった。
「…………何?」
 首筋に走る痛みと、重圧感。巫呪姫は唯一動かせる目線を、そちらにのろのろと動かす。
 地蜘蛛が一体、一心不乱に巫呪姫の首筋にかぶりついている。
「なに……を……して……おる……?」
「この、たわけが!」
 師団長が立ち上がり、その地蜘蛛を殴り倒す。
 倒れた地蜘蛛を、姫巫女が一喝する。
「召還の儀の最中に、何を血迷うたか!」
「左様、一人抜け駆けは許さぬぞ!」
「その通……は?」
 巫呪姫があっけにとられて、師団長を見る。彼もまた、それを見返す。
 師団長だけではない。殴り倒された地蜘蛛も、そして他の雑兵たちも、祈るのをやめて巫呪姫に顔を向けている。
 それはまるで、待望の獲物を前に「待て」をされている猟犬の群れのように。
「今……今、なんと言った?」
 音もなく、地蜘蛛たちが一斉に立ち上がる。
「皆に均等に姫巫女の血肉が行き渡らねば、不平が起こります故に。
 蜘蛛神様の復活には、姫巫女の命が必要なのです。人間と地蜘蛛の両方の血を持つ、姫巫女の命が」
 巫呪姫の顔から、血の気が引いた。
 人間と地蜘蛛の両方の血。あなたには人間の血が混じっている、と言った那須子の言葉を、はっきりと思い出す。
「……嘘だ」
「嘘ではございませぬ。人間の母体に、我ら地蜘蛛の子種をはらませ、生まれ出た子供があなた様でございます」
「そんな話は聞いておらぬ。妾は生まれながらの地蜘蛛にして、この人に近き身は選ばれし地蜘蛛の証であると」
「そのようにしておいたほうが、都合がよろしいからでございます。教えて育てますと、ここぞという時に、命を捨てるのをためらうことがあります。ですが」
 音もなく、地蜘蛛が巫呪姫の背後に降り立った。
 逃げ道を、塞いだ。
「かようにいたしますれば、逃げられることもなくなります」
 前を見て、後ろを見て、巫呪姫が首を横に振る。
「……い、いやじゃ。いやじゃ。妾は、妾はまだ死にとうない」
「覚悟をお決めくだされ。常日頃より、仰せではありませんか。回天のためには、尊き犠牲が必要である、と。それがご自身になっただけのこと。何をためらう必要がございましょう」
「い、いや」
「食らえい!」
 師団長の号令一過、地蜘蛛が我先にと巫呪姫に飛びかかり、取り合うようにその腕に、足に、頭に胸に腹にかぶりついていく。
「ぎゃああああああああああああ、あああああああああああああ……」
 絶叫が、地蜘蛛同士の争いの中にかき消える。肉食魚の水槽に生肉を放り込んだ時のような、凄惨な生贄の儀式。
 ぶちん、ぶちん、と、体の一部を食いちぎられる音を聞いたが、不思議と痛みは感じなかった。
 地蜘蛛たちの信仰を一身に集め、寵愛を受けて育った幼き頃の日々。地蜘蛛の導き手として教育を受け、回天を現世に呼び込む使命に燃えた少女時代。そして京都で東京で、名だたる妖怪バスターたちを敵に回して戦った、血沸き肉踊るあの頃。
 それらが、全て。この日のために築き上げられた幻想であるというのなら。
 まんまと乗せられた自分は、救いようのない大馬鹿者ではないか。
 これで、よくも、まあ。高原を笑えたものだ。笑えるような状況でもないはずなのに、不思議と自嘲の笑みが浮かぶ。だがその表情を作る筋肉も、そろそろ食いちぎられて……
 ……?
 のしかかった地蜘蛛の重みを、肌に食い込む牙の感触を感じない。
 ああ。いよいよ冥府に導かれたか。ゆるゆると薄く目を開ける。
 真っ赤な景色の中に獣の尻尾のような毛並みの束が見えたところで、その光景はかすれ、巫呪姫の意識は闇に沈んだ。

○   ○   ○

 狭苦しい、什器の一つも置かれていない部屋の中に、智己はいた。
 目隠しをされたまま一時間近く歩かされて、最終的に叩き込まれたのが、どことも知れない雑居ビルの、この部屋である。
 真っ暗で冷たいコンテナの中に比べると環境は幾分改善したが、動けないことには変わりがない。
 ここでどれだけの間、幽閉されることになるのだろう。友人らが助けに来てくれるまで、自分の精神は保つつのだろうか。
 そんなことをもやもやと考えていると、ドアの外に人の気配がした。いつもの黒服だろうか、と思って身構えていると。扉が開け放たれると同時に意外な声が聞こえてきた。
「鷲塚君、ここから出よう!」
 驚く暇もなく、女性が智己に駆け寄って来て、両腕両足を縛りつけるロープをほどきにかかる。
「ここから出るって……出られるんですか?」
「今は警備が手薄なの。お師匠様が手勢を引き連れて、大厄の確保に向かってるから」
「大厄!?」
 はい、と、自由になった手に一本の日本刀を握らせる。
「護身用。扱えるでしょう?」
「扱えることは扱えますが……うわっと」
 立ち上がろうとして、途端に目眩が走る。四肢に力が入らない。数日にわたり動けなかった影響で、筋肉が萎えている。
「とりあえず、ここから出ましょう。外に出てしまえば、あとはなんとかなるわ」
「そんなもんですかね……」
 女性に肩を支えられて、部屋から這い出す。
 久々に浴びた外界の光で、目が眩んだ。

如月(13)

「今しがた、東汝鳥周囲を偵察している方から連絡が入りました。先ほど、葦矢の一派と思われる一団が汝鳥近辺を自動車に分乗して、西に向かっていったのを目撃したとのことです」
 携帯電話を手にした香奈の言葉に、妖怪バスターたちが戦慄する。
「あいつらも、供馬尊の位置が分かるのか……?」
 塔子が全員を鼓舞する。
「速攻で終わらせて、連中に追いつかれる前に間に合わせるんだ。ほら、情報通りだ」
 指をさした先に、二人の少女の影が見える。



(あれは……!)
 瑠璃の心の声に、辰之進は表情を曇らせる。正面から近づいてくる学生の群れを認め、供馬尊が振り返る。
「もしかして……知り合いか?」
「ああ、この体の持ち主の、同僚の皆さんがただよ。あいつら、学生たちとつながっていたのか」
 ジョシュアが二人に声をかける。
「降参を提案するね。君らは前の戦いで消耗してる。若いとはいえ彼らは妖怪退治のプロだ、万全じゃない君らに勝ち目はない」
 供馬尊が握り拳を作る。その指には例の指輪が、青白く輝いている。
「やってみなければ分からんだろう……」
 ぞろぞろと現れた学生たちが、二人を前に立ち止まる。そのうちの一人……丸い金属製の板を手にした少年が、声をあげる。
「間違いないな。頭と右腕だけ持つ得体の知れないものが、お嬢に憑いてる。しっかし多賀野は改めて見るとすごいもんだな……吸血鬼に神三柱も抱えて、いつぶっ壊れてもおかしくないんじゃないのか?」
 長身の男に守られた小柄な少女が、二人に声をかける。
「吸血鬼と大厄・供馬尊の両名だな。その二人は、我々の大切な後輩たちだ。穏便に返していただけるとありがたいのだが」
「あいにく自由に動き回るには、少々体のパーツが足りんのだ。二人ともな」
「その二人に聞きたいことがある。完全な体を取り戻して、なんとする。敵対か? 共存か?」
「無論、共存を。少なくともこの日本に移ってきた時は、そのつもりだった」
 供馬尊は両腕を広げる。
「だが、この国の人間たちはなんと狭量なことか。我々の力を忌み嫌い、挙句の果てには破壊の神扱いだ。私も彼も、散々になぶられた上に暗い地面の底。時代は変わり人間たちの代もまた変わったが、今も我々に牙を剥いた連中には復讐してやりたい気分でいっぱいだよ。
 君たちはどうなのだ? やはりあの心の狭い人間たちと同じく、我々を退治する腹づもりなのか?」
「あなたがたがあくまでも闘争を選ぶというのなら、それもやむなしだろう。しかし我々も先人たちも、全ての来訪者に対して寛容ではいられないことは、理解してもらいたい。
 あなたを封印から解き放った連中は、あなたの力をいかなる目的に利用しようとしているのかもしれない。そうなる前に、我々はしかるべき対処をとらなければいけないのだ」
「しかるべき対処とは何か。その先人たちと同じく我々を八つ裂きにし、燃やし尽くし、再び暗く冷たい地面の底に追いやることか? 我々はそんなことに応じるつもりはないし、それでもやると言うのなら、全力で抵抗しなければならない」
「何も暴力的な手段ばかりが全てではない。我々と共に最善の道を模索するというのも、今なら手遅れではないように思えるが?」
「君の話を汲むなら、その最善の道とは互いに手を取り合って仲良しごっこをすることではないように思える。暴力的な解決と平和的な解決と、その中間にいかなる妥協点を見いだすつもりだ?」
「それは……」
 塔子が言葉に詰まる。
「ほら、即答できまい。いったん休戦で手を握ったところで、隙あらばそちらが寝首をかかんとしないとは、誰が言い切れる?」
 沈黙が支配する。供馬尊の動向を、学生たちが、そして辰之進までもが固唾を飲んで見守っている。
 その辰之進に、瑠璃が語りかける。
(浦戸さん、あなたから彼を説得してもらえませんか? 私は藤間さんの言う通り、この地で神として祀られるのが最善であると思います)
(多賀野君、君までそんなことを言うのか?)
(退治するのと、祀られるのとは微妙に意味合いが異なります。それは力あるものに対して、敬意を以って安住の場を提供するということでもあるのです。あなたも何より、それを望んで日本にやってきたのではありませんか?)
(…………)
「もういい、交渉は決裂だ」
 強引に話を打ち切り、供馬尊が身構える。
「理解したことが一つある。どんなに文化が進んでも、弱肉強食の摂理は変わることがないということだ。君たちも同僚の身柄を返してほしければ、力ずくで奪い取ってみるがいい」
 少女が息を吐く。
「残念だ。できれば穏便に済ませたかったのだが」
「例え君がそのつもりであったとしても、後ろのお嬢さんはそうではないらしいのだがね」
 じゃりん、と金属同士をこすり合わせる音がする。
「無論、私は非常時の控えですわ」
 供馬尊の背後に立つ、長い杖を持った少女が、その杖を地面に突き立てる。
 ごう、と、一瞬風が吹き荒れ、空気が変化したように思えた。供馬尊の表情が一変する。
「ぬう!?」
 驚いて、供馬尊が自分の右手を見る。寿命がきた蛍光灯のように、指輪が明滅を繰り返している。
「妖力封じの結界を周囲に張らせていただきました。いかなる妖怪もこの結界の内部では大きく力を減じることとなります」
 辰之進が自分の手を見ながら、叫ぶ。
「しまった、時間稼ぎのための長話だったのか!」
 供馬尊が辰之進に振り向く。
「術者を仕留めろ。倒せば結界は消失する!」
「お、おう」
 辰之進が杖の少女に対して振り向くと。
「おっと、そう簡単にゃとらせないよ?」
 丸板の少年が、大振りな刀を手に辰之進の眼前に立ちはだかる。
「あんたの相手は俺がしてやるよ。いつぞやの血の細工は、今でも有効かい?」
「……意外だな。君はその力を使いたがらないと思っていたのだが」
「あいにくと。手に入っちまったものはしょうがないし、なりふり構うなってことあるごとに口うるさい輩もいるもんでね!」
 斬撃を振り下ろす。道路のアスファルトにひびを入れるほどの重い一撃を、辰之進はすんでのところでかわす。
「ちょっと待て、この体は君らの仲間だろう。殺す気か!?」
「その女は俺の嫉妬の対象だ、躊躇してやる筋はない。ろくに手柄のないそいつも、大妖怪を足止めして死ねたとなれば本望だろう?」
 瑠璃の意識が、ため息をつく。
(冬真君、本気ですね……あの、そろそろ体を返してもらえません?)
「ご冗談を」
(では、彼に怪我させるのは許しませんから)
 大剣を手に迫り来る吹雪を前に、辰之進は冷や汗を流す。
「何もせずに逃げ回れってことか……畜生め!」
「まさか」
 背後から聞こえた声に、鳥肌が立つ。
 お下げ髪の少女が突き出した掌底を、すんでのところでかわす。
「逃がすつもりは、ありませんので」



「ヒャッハアァーッ!」
 鬼神の形相で、大介が供馬尊に鉄パイプを振り降ろす。
「くっ」
 受け止めた杖が飴細工のように折れ曲がる。供馬尊はそれを投げ捨てると、指輪のはまった右手をあげる。
「こんな間に合わせの結界で、我が魔力が妨げられるとでも……」
 再びはっきりと輝き始める指輪を見て、ジョシュアが叫ぶ。
「やめろ! おいトウカ君、聞こえているか。私だ、ジョシュア・クロイスだ!」
 供馬尊がジョシュアに一瞥をくれる。
「無駄だ、無駄だ! この娘の意識は完全に眠っている。いくらお前が呼びかけたところで、答えるはずがない」
 飛び込んできた大介に対して、腕を伸ばす。
 閃光と共に、指が伸びるかのような錯覚。供馬尊から放たれたそれは、大介をそのまま刺し貫かんとする。
 鉄パイプが、宙を舞う。
 供馬尊の指にはまった指輪が変形して長く伸び、一メートルほどの細身の剣と化している。
 しかし、その爪先に、大介の姿はない。
「なっ!?」
 大介の姿は、供馬尊の足元にあった。そのまま腕をとり、肘に容赦なく拳を叩きつける。
 ごきゃ、と鈍い音。
「…………!」
 激痛に言葉が消える。供馬尊の右腕が、あらぬ方向に曲がっている。
(仲間の腕を……容赦なく……!)
 指輪に手を伸ばそうとする大介の体を、蹴り飛ばして遠ざける。
 動かせない右手から指輪を抜き取りながら、大介を睨みつける。
「貴様……誰からこの私の動きを教わった?」
「あー?」
 仕返しのように大介が水面蹴りを見舞う。供馬尊が後方へと飛びのく。
 そこへ弾丸のように、黒い影が突っ込んでくる。
「はっはー、気がついたようだな。お前の戦い方はさっくりとお見通しだ! ご丁寧に教えてくれた奴がいたからな」
「ご丁寧に説明すんな。イライラする」
 大介の愚痴を無視して、マリアが供馬尊に飛びかかる。双の小太刀を後ろへと避けながら、供馬尊は舌打ちする。
(あいつらか……!)
 それはもちろん、奥多摩で交戦したリファール商会のエージェントたちのことにほかならない。
「恩に着るぜぇ、オカミスの。利き腕の使えない奴なんて死んだも同然! とどめはこの剣術研究会三年、マリア・ロックウェルが引き受けた!」
 そこは後輩に手柄を譲る謙虚さを持ちましょうよ、という晴海の呟きをも聞き流し、マリアが嬉々として小太刀を振るう。
 しかし供馬尊は剣に変化したままの指輪を左手に持ち替えると、それを用いて小太刀を受け止める。
「あなどるなよお嬢さん。私も君の太刀筋は見ているんだ!」
 がちん、がちん、がががががががが。
 左手、一本である。十秒あまりの間に振るわれた両刀合わせて三十合もの太刀を、供馬尊は後ろに下がりながらしのぎきる。
「なんでぇ、剣術も嗜んでるのか?」
「処世の一部だっ!」
「聞いてくれトウカ君! 私はこいつの持っている指輪を探しに日本までやってきた!」
「後ろ、黙れ!」
 わずかなインターバルの虚を突いて、供馬尊が剣を引く。手元に収まり元の指輪に戻ったそれが、再び輝き始める。
 それを見たマリアが、追撃するべく飛び込んでくる。
「遅い!」
 ぱん、と、周囲の空気が弾けた。弾丸の勢いで突っ込んできたマリアが、壁で跳ね返ったかのように真反対へ吹っ飛ばされる。
 しかし当の加害者、供馬尊の心中には、なぜか不安がよぎる。
(無謀すぎる……予測できない攻撃ではなかったはずだが……?)
 背後に、刺すような殺気を感じた。背負ってる小さいののものではない。
「あーっはははははははははは!」
 狂ったような高笑いをあげながら、鋼音が剣を振り上げている。
「……!」
「まんまと騙されたねぇ。マリア先輩は囮よ、お・と・り。このお馬鹿さんっ!」
「猪口才な!」
 すぐさま、供馬尊が振り返り、手の指輪が光の軌跡を描く。その軌跡が光の鞭へと姿を変えて、鋼音を叩き伏せる。
(間抜けめ……そんな大声をあげながら近づいたら、囮の意味が……?)
 違和感が、消えない。
 供馬尊の常人離れした感覚は、まだ別の何かが接近していることを感じ取っていた。
(……二重の囮かっ!)
 回転する視線の先に、真っ白い木刀を引っさげた朱陽の姿が横切っていた。

如月(14)

(……手にした指輪を起点とした戦闘スタイル。指輪自体を自在に変形させて敵の虚をつくほか、視認困難なエネルギーフィールドを発生させる。その形態は指向性のあるシールド、衝撃波、近接兵器、砲撃など多様にわたり……)
 数時間前のホテルにて、塔子らは突然届いた手紙の内容に目を通していた。そこには、リファール商会のエージェントたちが供馬尊や辰之進と戦った際のかなり詳細なデータが、匿名のメッセージとして記されていた。
(……真実だとしたら、大変に価値のあるものだ。この手紙の出し主は、これを大いに活用して供馬尊を倒してほしいということらしい)
 香奈が発言権を求める。
(供馬尊は純然たる妖力の塊を武器として用いることに長けているようですね。それなら私が封魔の結界を張ることで、力をそぐことができるかもしれません)
(結界を張るのにどの程度の時間がかかる?)
(範囲にもよりますが、急いで一分弱……その間、注意を引き付けていただければ)
 話し込む塔子らの脇で、マリアらも声を潜めていた。
(これって、千載一遇じゃね? 朱陽の木刀をぶち当てれば、勝てるかもな)
(簡単に言うけどねぇ。ちっさい指輪にあてるのは並大抵のことじゃないよ)
(なぁに、そこはどうにかしろ……オイラと鋼音があいつの注意を引き付けてやっから)
(え、ちょっと待った! 私も!?)
(何、いやそうな顔してんだよ。朱陽はいわばオイラたちの最終兵器だろうに。その最終兵器をあてるためにオイラたちが頑張らなくて、どうする?)
(……しょうがない、譲ってやるか。ねえ朱陽、この私が囮役を買って出るんだからね。しっかり決めなさいよ?)
(……囮って言うけどねぇ。そりゃあ、あんたらが大厄の攻撃全部引き受けるってことだろう。怪我する程度じゃ済まないよ?)
(心配するな)
 マリアは笑って、ばんばんと朱陽の肩を叩く。
(烏丸の結界であいつの力は弱くできるんだろう? 死にゃあしねえって)

○   ○   ○

 その、マリアが、鋼音が。
 供馬尊の打撃を食らってすでに倒れ伏している。
(だからこの機は、成功しようが失敗しようが一回こっきり……意地でも、あてる!)
 供馬尊が、朱陽に向けて指輪を振り上げようとしている。彼女はそこへ、無我夢中で木刀を突き出した。
 まるで吸い込まれるように、木刀が指輪を直撃する。
 金属音。指輪が大きく宙を舞う。ジョシュアがそれを見上げて、声をあげる。
「だ、誰でもいい。指輪を!」
 大介が、朱陽が、それに向けて一斉に手を伸ばす。
「はい、残念!」
 その声と共に、横合いから現れた辰之進の手が、指輪を掠め取る。
 背後からそれを追い回していた吹雪が叫ぶ。
「しまった──!?」
 指輪を握った辰之進が、口から八重歯を覗かせる。
「少々借りるぞ、トーマス!」
 指輪がより強く光輝き、妖怪バスターたちの目を焼いた。全員が全員、目を押さえてたじろぐ。
 正常に戻った視界には、倒れた辰之進……ではなく、瑠璃の姿。そして供馬尊の姿はすでになく。
「まったく、派手にやってくれるよ」
 声がしたのは、妖怪バスターから遥か遠く。
 黒いマントを羽織った、暗灰色の髪を持つ色白の男が、供馬尊の肩を担いでいる。
 塔子が思わず舌打ちをする。
「まさか、吸血鬼……!」
「その通りです」
 むくり、と、瑠璃が起き上がる。
「和名を、浦戸辰之進さんとおっしゃるそうで。どうやら、指輪の魔力を用いてご自身の体を再生させた様ですね。元から供馬尊と、そういうお約束をしていました」
 辰之進が言う。
「まあそういうことだ。少々ホストがピンチに陥っていたから、前金を頂戴することにした」
 供馬尊が荒い息を吐きながら、辰之進を見上げる。
「このまま逃げる気ではあるまいな……契約不履行は許さんぞ……?」
「まさか。短い付き合いだがいろいろ助けてもらっているし、義理は果たすさ」
 塔子はその光景を眺めて、歯軋りをする。
「あと一歩のところで……悪手を打ってしまった」
 サワンが声をかける。
「諦めんのは、まだ早いでしょ。追えないこともないし」
「いえ。どうやら時間切れのようです」
 遠くから、無常な車の音が聞こえて来た。
 その場に現れた黒いハイヤーは、妖怪バスターと辰之進たちとの間に強引に割り込んできた。
 扉が開いて、黒服たちに守られるように萬斎が姿を現す。
「やあ、やあ。これは修羅場にお邪魔しましたかな」
「イライラするぜ」
 大介の一言が妖怪バスターたちの弁に代わる。呑気な、あまりにも場違いに呑気な萬斎の言葉が、神経のささくれを逆撫でる。
 対する供馬尊らも、胡乱な目で萬斎を見ている。
「誰だ、貴様」
「おお、これは失礼を、供馬尊よ。わたくし、あなた様の封印を解かせていただきました者です」
「何を、いけしゃあしゃあと。その私を野に解き放って、何がやりたいのだ? 貴様は私を封印した連中と、同じ匂いがするぞ」
「滅相もない。わたくしが封印を解いたのは、あなた様を完全な形に戻さんがため。いかがですかな? わたくしと来ていただければ、もう半身の封印を解かんとするあなた様の大願、お手伝いいたしましょうぞ」
「魅力的な提案だが、私はこの国の人間を信用していない」
 供馬尊が、辰之進に目くばせをする。それを合図に、辰之進の姿が黒く染まり、崩れ落ちる。
「!?」
 唖然とする人間たちの前で、それは供馬尊の体を包み込み、飛び上がった。
 黒い塊に見えたものは、大量の蝙蝠だった。それが供馬尊の体をしっかりと支え、上空に飛び上がる。
「我が信用を得たいならば、もう半身の封印も解いて見せるがいい。私は先に行って、その時を待つ……もっとも、貴様らの力を借りずとも、解放を試みるつもりだがな」
 大きく飛び上がった供馬尊を、麗が茫然と見上げる。
「あれでは、さすがにあとを追えそうにないわね……」
 一方、萬斎もまた空を見上げると。
「ふむ。まあ良いでしょう。おおむね計画通りでありますし」
 一斉に殺意の目を向ける妖怪バスターたちに対し、萬斎は手をあげる。
「おおっと、今回はあなたがたと喧嘩するつもりはございませんよ。我々は先に戻りますので、ごゆるりとおいでなさい。時に、鴉取のご令嬢」
 白い布に包まれたままの備前長船を手にして立っていた、真琴を見る。
「お兄様はこちらで丁重にお預かりしております。どうぞ、五体無事で汝鳥までお戻りくださいね」
 そう言い残すと、萬斎は再びハイヤーに乗り込んだ。
「…………」
 吹雪は無言で、手荷物に隠したこすもるがーを探す。
 萬斎に聞きたいことは、山ほどある。しかし正直なところ、この気色の悪い老人と係わり合いになるのはそろそろ終わりにしたい。吹雪だけではなく、妖怪バスター全員がそう思っていた。
 走り出したハイヤーのタイヤに、狙いを定める。
 しかし、撃てなかった。射線に割り込んだのは、萬斎のハイヤーとは別の車だった。何事かと思う間もなく、助手席の扉が開く。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおお!」
 ネイは車外に飛び出すや、獲物に飛びかかる猛獣もかくやの勢いで瑠璃に駆け寄っていた。
「見つけたぞ瑠璃介、いや吸血鬼! ここであったが百年目、覚悟しろ! それがいやなら今すぐ妾を元に戻せ!」
 瑠璃が胸倉を掴まれて、ぶんぶん振り回される。
「いや、ちょっ、あの、まっ」
 周囲で茫然とその光景を見ていた妖怪バスターたちが、何人か駆け寄ってネイを止める。
「落ち着いて、先生。もう多賀野は吸血鬼じゃないから」
「なぬ!?」
 動きの止まったネイの首筋に、瑠璃がついと手を伸ばす。
「あの、少し動かないでいてくださいね?」
 ぱん、と空気のはじける音と共に、瑠璃の指先にほのかな光が生じる。
「…………?」
「これで、リファール先生の体内に潜んだ吸血鬼は、全て浄化されたと思います」
「…………マジで?」
 ネイは半信半疑のまま、首筋に、ぱちん、ぱちんと、自分の手をあてる。
「お、おお、おおお、確かに体が若干軽くなった気がするぞ。よくやった、よくやったぞ瑠璃介えええええぇ!」
 今度は両腕を掴んでぶんぶん振り回す。
「いや、ちょっ、あの、まっ」
 妖怪バスターたちは、今度は止めようとせず、ゆるりと脱力する。春菜もまた、乾いた笑いを浮かべながら、その光景を見ている。
「なんだかんだで『ありがとう』とは絶対に言わないのが、先生らしいと言うか……」
 その脇で、吹雪は一つため息をつくと、一度は取り出したこすもるがーをバッグの中に再び放り込む。
「良かったのやら、悪かったのやら……」

如月(15)

 汝鳥市内の薄暗い路地の影。
 智己は、壁を支えにして、汗を流しながら自身の手足を動かしている。
 外の様子を伺う女性に、屈伸しながら尋ねる。
「いったい、何が起こってるんですか!? ここ、汝鳥市ですよね?」
「鷲塚君、声が大きい」
「……すみません」
 しばらく、沈黙。
「確かに君の言う通り、ここは汝鳥市。君のホームタウン。信じてもらえるかどうかは、分からないけれどもね。私たちがここに来る前から、市内はこんなありさまだったわ」
「あの巨大な木も、僕たちが来る前からあったんですか?」
 智己は上空を見上げる。ビルの合間に見える巨木を。現実とはあまりにかけ離れた、その光景を。
「あったわね。大厄の封印の真上に。誰かが封印を守るために、この状況を作り出したんじゃないかしら?」
「誰かが……」
 とっさに思いついたのは、恋花の顔だった。あの大樹を作ったのは、恐らく咲哉の力。そして、あの愉快犯のような行動を好む稲荷ならば、木から興味を背けるために市民に暗示をかけるくらいのことは、やりかねない。
 足を踏み鳴らしながら、智己が言う。
「そろそろ、一人で動けそうです。いったん、この街から出たほうが賢明ですかね」
「駄目ね。街の周囲は完全に封鎖されてる。不用意に出ていこうとしたら、連中に捕まってしまうわ」
「うーん……」
 考え込む智己の肩を、女性の両手が押さえる。
「聞いて、鷲塚君」
「は、はい」
 ぐい、と、半ば強引に顔を向けさせられた先には、真剣なまなざしの女性の顔があった。同時に、香水か何かか、ほのかな甘い香りが鼻をくすぐる。
「遅かれ早かれ、君の友達はあの封印を守るためにやってくるでしょう。そこで合流すればいいのよ」
「あの木の近くで、ですか……でも、市内のそこかしこに正気を失った人たちがまだ残ってますよ」
「やむを得ないわね。突破しましょう……いいこと、鷲塚君。相手はとても尋常じゃない。油断や躊躇をしてたらこちらがやられるわ」
「は、はい」
「だから……市民も、お師匠様の弟子も、いかなる妖怪も。かかってくる者がいたら、全力で倒しなさい。いいわね?」
「……はい」
「あ、でも。妹さんだけは斬らないように気をつけなさい。肉親ですものね」
「……はい」
「よろしい、では、準備して。はい!」
 ぱん、と、目の前で手を打たれる。智己はのろのろと、傍らに立てかけた太刀を掴み上げる。
「今は誰も見てる人がいないわ。ついてきて」
「……はい」
 夢見心地のような目で、智己がその背中を追う。
 かかってくる者がいたら全力で倒せ。
 ただし妹は斬らぬように。
 かかってくる者がいたら全力で倒せ。
 ただし妹は斬らぬように。
 智己の脳裏には、先ほど女性から聞かされた言葉が、けたたましいほどに繰り返されていた。
 かかってくる者がいたら全力で倒せ。
 ただし妹は斬らぬように。
 だから、智己は気がついていなかった。先ほどの女性の言葉に嘘が混ざっていることを。汝鳥市内を包囲しているのが、警察であることを。
 かかってくる者がいたら全力で殺せ。
 ただし真琴は殺さぬように。

○   ○   ○

 ウォレスは塔子らの報告を聞き終える。
「事情は、大体分かりマシタ。さーて、そんじゃあどうしマショウっかねぇ……あのおじさンの言葉を真に受けて、汝鳥に乗り込みマスかぁ?」
「当然であろう。行ってその辰之進とか言う奴を一発ぶん殴ってやらねば、妾の気が済まんわ」
「あのですねリファールセンセ。ちったぁ理性的に考えマショウよ。どー考えたって、あのオッサン、市内で罠張って待ち構えてマスよ? アタシら無垢な兎になって、みすみす罠にかかりに行きマスか?」
「相変わらず消極的だな、ゲー公は。世の中、無力な兎もいれば、一撃で首をはねる兎も居るものよ。奴らにそれを分からせてやれば良かろうが」
「アタシらの居るのは、狂王の試練場じゃございマセンよ? デスが」
 はあ、と、一つため息。
「理性的に考えても、とっとと行かにゃならんことは明らかデスかね。部員たちに怪我人は?」
 晴海が首を振る。
「ロックウェルさんと御神さん、重傷です。戦場より病院に行くほうが先ですね」
 そらの応急処置を受けている二人を見て、朱陽が肩を落とす。
「まったく、無茶しやがって……もう同じ手は使えない、か。警戒されるし……」
 朱陽は吹雪を見る。
「ヘンテコ銃はまだ一発も撃ってないよね。使えないのかい?」
「使えないことはないです、が」
 心のどこかで、吹雪の鏡像が笑っている気がする。
「……ぶっちゃけ、このふざけた銃のでき損ないで、あの馬鹿狐が『弓』と主張するものを使うのには、抵抗があるだけです」
「なんだよ。まだ恥じらいを感じてんのか」
「そんなんじゃない。それ以上に、あの狐の思惑に踊らされてる感が気に入らんだけですよ」
 ふ、と、朱陽が鼻息を漏らす。
「そんなに滑稽ですか」
「違うね。何を今更、って思ったんだよ」
 黙り込む吹雪を前に、朱陽は続ける。
「あんたも私も、鷲塚のぼっちゃんも、鴉取のお嬢ちゃんも、多賀野も、朝霞も、龍波も。皆が皆、最初からやっこさんの手のひらの上で踊らされてるのさ。私らはあの供馬尊だの、葦矢だのといった連中を倒すために、踊り続けるよりほかにないのさ」
「蓮葉先輩、それで満足っすか? 下手くそなポールダンス踊ってる俺たちを、あの女はどこぞでにやにや眺めてるかもしれないんすよ?」
「それがどうした。神は気まぐれなもんさ……それであらかたの説明はつく」
 香奈が叫び声をあげる。
「皆さん、葦矢の根城が分かりました! 葦矢の車が入っていくビルが特定できたとのことです」
「だとさ。そんじゃ、行こうか?」
 木刀を肩に担ぎながら、朱陽が言う。
「それにねぇ。あのお狐さんが現状を『笑いながら』見ているって、誰が言い切れる?」

○   ○   ○

「……まいったわねえ」
 人気のないビルの屋上に、恋花はしゃがみ込んでいた。
「……成り行き上助けちゃったけど、どうしようかしらねえ、これ」
 傍らに打ち捨てられたものを眺める。単的に言えば、人の形をした襤褸雑巾。
 全身をぼろぼろに食いちぎられ、半死半生の巫呪姫が転がっている。四肢にところどころ骨が露出している部分があり、生きているのが奇跡と呼べるレベルの重傷だった。下界では、地蜘蛛衆が血眼になって、彼女を探しているだろう。
「半分妖怪なんでしょ……どうにか蘇生なさいな。悪いけど、あんたに回してやる神通力は、もう残ってないからね」
 片や恋花も、大きく消耗していた。先の市民を化かした仙術に加え、地蜘蛛との大立ち回りである。絶対防御を誇っていた恋花の神力は、今や見る影もない。立ち上がるのに勢いを必要とするほど疲弊しており、いくばくかの手傷を負ってすらいる。
「いっそ楽にしてやるのも手なんだけどねえ……その魂を餌にして、厄介なのが来ちゃうかもしれないしねえ……」
「ぐ……」
 聞こえているのかいないのか、微かなうめき声をあげる巫呪姫に語りかけるように、恋花は独り言を呟き続けている。
「さて……本当に、どうしようかしらねえ……」

○   ○   ○

「相馬小次郎。そなたに、頼みがある」
 南光坊が、小次郎に言う。
「簡単なものでお願いします。ここから脱出して、木刀を京都まで届けるのに使った力が、まだ回復していませんので」
「なぁに、願うだけなら、簡単よ……身共の代役として、御大を殺害してもらいたい」
「内容はまったく簡単ではありませんね。あなた自身は、その御大に手を下せないのでしたか」
「左様。身共が現世に留まっていられるのは、御大の反魂によるものであるからな。身共は直接、御大に手を出すことができんのだ」
「こちらは一人、あちらは多勢。勝算は限りなく低いでしょうね」
「なぁに、案ずるな。奴の手勢の大半は有象無象だ。ただ一人、『御方』を除いてはな」
「御方?」

○   ○   ○

「大奥御年寄、安倍川松子。通称、松の御方」
 分乗した車の一つで、麗が京都の図書館で得た知識を明かしている。
「表向きは大奥に招かれた数多い女中の一人。でもその実態は、大奥を始めとする将軍家を、ひいては江戸全域を守る陰陽師であったというわ。彼女が存命のうちは、江戸内部で一度の内乱も大火もなかったそうよ」
 春菜が相槌を打つ。
「確かに、あの法力の強さを考えると、その人と同一人物である可能性は極めて高いですね。そんな人を蘇生させて、使役してしまう葦矢氏もすごいですけど」
「ただ残念ながら、その人物がどんな法術を使っていたのかまでは時間切れで分からなかったわ。彼女にどうやって私たちの声を届かせればいいか……」
「……今後も葦矢の生ける人形として扱われるならば、もう一度土に返してあげるのが、筋ではないかと思います。哀れと思う気持ちは分かりますが、ならばこそ」
「やっぱり、そうよね。私としては、少し話をしてみたかったのだけれど」
 二人に挟まれて話を聞いていた真琴が、手をあげる。
「南光坊さんに、聞いてみるというのはどうかしら?」
「あの人が何か、知っていると?」
「根拠はありませんが……あの人も葦矢氏に呼び出された人なのでしょう? 彼も生前は、江戸を守護する僧侶の一人だったと聞いています。もしかしたら、同じ時代の人なのかもしれません」
「可能性は……あー、あるわね」
 麗が窓の景色を見る。
「さっき会った時に、聞いておけば良かったかしら……」

○   ○   ○

「葦矢は御方を自在に操るため、その両目両耳を潰した上、凄惨な拷問にかけたと聞いている。葦矢のやり口なのだ。相手の情報を奪い、極限状態の恐怖に追い込むことで、味方に引き入れようとする」
「普通なら、意地でも協力するまいと思いますが」
「それが、逆なのだ……そういう状況に追い込まれた者は、次第に恐怖の対象に対して共感を抱くようになるという。葦矢はそれを『すとっくほるむ症候群』と呼んでいた。加えて今の御方は目が見えぬ、耳も聞こえぬ。御方は、ついこの前まで自らを辱めた本人に使われていることすら、気がついておらぬであろう」
「外道の沙汰ですね……」
「しばしの間で良い。そなたには葦矢一味の目を引き付けておいてもらいたい。身共はその間に、御方の目を覚まさせるための策を講じて……おい、どうした?」
 小次郎の様子を、南光坊が窺う。小次郎はなぜか、苦しそうに頭を抱えていた。
「以前に、ずっと昔に……そのような人間と相見えた気がする。それを思い出そうとしたら、急に頭が痛くなって……」
「どういうことだ……って、そなた、まさか記憶が……」
 どうにか落ち着かせるため、場所を変えようか。そう南光坊が思案した時のことだった。
 背後に、人の気配がした。
「……ったく、この込み入った時に。セールスなら間に合っておる……?」
 その後ろに視線を配った南光坊の目が、驚愕に見開かれる。
「なぜそなたがここに居る? ……おい、待て。身共らだ、忘れたのか!?」
 その人物の手に、銀光が閃いた。

如月(16)

 ガレージのシャッターが開き、妖怪バスターたちがぞろぞろと内部になだれ込む。
 内部には萬斎が乗っていたものと同じハイヤーを始め、数台の車。しかしそれらの合間に人の気配はない。
「二人組を作って、各階を捜索しろ」
 塔子の指示の下、ガレージの奥からビルの内部に入り、一部屋ずつ扉を開いて様子を見る。まったくの空きビルと同じありさまで、もぬけの空の部屋が続く。
 入り口近くにある、小窓のついた部屋を覗き込みながら、サワンが言う。
「管理人室も使われてないっぽいね。本当に、ここに葦矢たちが入っていったのかな?」
「しかし車のナンバーは、確かに連中が乗って来たものと一致しています。ここに入ったのは間違いないのですが」
「おーい」
 ビルの奥から、吹雪の声が聞こえる。手招きに応じてその部屋に集まってみると、妙なものが目に入る。
 床のタイルがはがされ、ぽっかりと大穴が空いている。地下室への入り口……にしては、後付けで作りつけた感が漂っている。
 大穴の内部は暗く、仔細は定かではない。
「いやはや、誘ってる感満載ッスね! でもなきゃ、わざわざ開けっ放しにしておくわけがない」
 春菜が、塔子を見る。
「やっぱり、中は汝鳥市に続いているのでしょうか……?」
「だろうな。どの道戻らねばならん、行くしかあるまい……場所が場所だけに、どのような危険が降りかかるか、予測できない。自信がない者は、残ってもいいぞ……特に、鴉取」
 妖怪バスターたちが、一斉に部屋の後方にいた真琴を見る。
「ついて行きますよ……ここまで来たら、どこに居たって危ないじゃないですか」



 大黒天が瑠璃に呼びかける。
(汝鳥に入ったら、俺たちもいったん恵比寿んところに戻ろうと思う)
(戎神社に戻られるのですか……できれば、最後までお助け願いたかったのですが)
(俺たちがお前の呼びかけに応えたのは、お前ん中に巣くっていたあの妖怪を押さえるためだ。それにあの坊主の言う通り、少々お前さんはいろいろ抱え込みすぎていた。このまんまじゃ風船みたいにパチンと割れるだろう。
 何、案ずるな。短い間だったが、お前には仕込めるだけのことは仕込んだ。行ってあのキザ妖怪も、大厄も、ついでに七月宮も浄化して来い)
(分かりました……できれば、お父さんお母さん、お姉ちゃんたちのことを、よろしくお願いします)
(任せておけ)

○   ○   ○

 萬斎が、数人の黒服に守られて汝鳥市内を急ぎ足で歩いている。その傍らには、車椅子に乗せられた婦人……安倍川松子もいる。
 その松子はと言うと、額から脂汗を流しながら微かなうめき声をあげ続けている。
「苦しいですか? 仕方がない、封印の破れかけた大厄も近いですからな……大丈夫、今少しの我慢ですよ」
 萬斎は松子を鼓舞しながら、市街の一角にある雑居ビルに足を踏み入れる。別の黒服数人、そして地蜘蛛衆がそれを出迎える。
「首尾は?」
「我が方はおおむね順調であります。鷲塚智己、他の少年少女たちの様子は逐一こちらで観察が可能です」
 黒服は一つの部屋に、萬斎を案内した。机の上に数台のモニター。その一つには、刀を振るう智己の様子が映し出されている。
「ふふふ、早速頑張っておられますな。逃げ出したあとも監視されてるとは知らずに」
「ライフル班も市内各地に散っております。いつでも、狙撃可能です」
「よろしい。鷲塚君を殺そうとする者がいたら、遠慮なく撃ちなさい……ただし、鴉取のご令嬢は駄目ですよ?」
「承知しております。ただ一つ、地蜘蛛衆が蜘蛛神の招請に失敗しました」
「何? あとは姫巫女が命を捧げれば、いつでも呼び出せる状態だったはずでは?」
「儀式の最中に横やりが入ったようです。東汝鳥側の土地神の仕業かと。姫巫女は奪われ、現在行方不明」
「小賢しいですな……姫巫女の捜索を続けなさい。見つけられなかった場合は、残る三つのジェネレーターを稼働させるよう、地蜘蛛たちに指示を出しなさい」
「かしこまりました」
 黒服たちが忙しく動き回る中、萬斎はモニター群の前の椅子に腰掛け、映し出された映像を眺めてほくそ笑む。
「さあ、『鍵』も『錠前』も揃わんとしております……早くおいでなさい、青少年諸君。私が、我が一族が待ちに待った封印を開放するためにね」
 一人肩を震わせる萬斎の脇で、松子は廃人のごとく口を微かに開き、何もない中空に顔を泳がせていた。

○   ○   ○

 抜け穴の向こう側も、薄暗い雑居ビルの内部だった。やはり、人の気配はない。
「塔子ちゃん、これ」
 サワンの持ってきたものに、塔子は目を見張る。
 白木細工の、太刀の鞘だった。鞘の中身がどこにあるのかは、明白だった。
「鴉取!」
 真琴に鞘を手渡す。彼女はその鞘の意味を瞬時に理解して、手にした布包みを解いた。
 備前長船の抜き身が、露わになる。それはたった今手渡された鞘の中に、ぴったりと納まる。
「……間違いないね。智己は恐らく、ここに捕まっていた」
「そして、どこかに移された可能性がある、と。濃厚なのは、やはり供馬尊の封印だな」
「行くかい? 葦矢も供馬尊のもう半分も、その近くにいるだろうけど」
「行かねばならんでしょう。虎穴に入らずば……」

○   ○   ○

「くそっ、あと少しだというのに!」
 供馬尊は口惜しげに幹を叩く。
 そこは、封印の大樹の上。供馬尊本人の力に加えて、指輪の魔力、宿主であるトウカの怪力、そして完全体となった辰之進の力を合わせても、木には一筋の亀裂を入れることすらできなかった。
 辰之進がその隣で、汗を流しながら枝にもたれている。
「神木の類だな。木そのものに特別な守護がある。やはり、あのご老人の話をあてにするしかないのかな?」
「気に入らんな……ん?」
 供馬尊の足元に、妙な光景が映る。
「おい、小さき者。あれもこの体の仲間か?」
「え?」
 首を捻ったジョシュアの顔が、驚愕に染まる。
「どういうことだ……なんで、彼らが戦っている?」
「私には分からんな……仲間割れか?」

○   ○   ○

「イライラするぜ」
 大介の口癖が、汝鳥の市街でも見事に炸裂していた。
「同感だな。道ゆく人がみんなナスナス言って暴れてりゃあねぇ」
「高原那須子の残滓、ですかね」
 サワンが、晴海の言葉に棘を感じ。振り返る。
「市内を、汝鳥学園の学生たちを、こんな風にしてしまうことが……彼女の望みだったのですか?」
 それは、静かな言葉ではあったが。普段は存在感の希薄な晴海が、珍しいほどに怒りを露わにしている。その光景にサワンは内心苦笑した。本当にお人よしなのだなぁ。
「……おかしいですじゃ」
 一方、恋歌もぽつりと口走る。
「この街のどこがおかしくないってんだ」
「そういう意味ではなく。町の中に入ったのに、八歳様の気配がとても薄いのですじゃ。どこにいるかも分かりませんですじゃ」
「大方、どこかで寝てんだろう? 下らねぇ邪魔を入れられなくて済む」
「寝たり起きたりするだけで、そんなに気配が変化するわけでは……」
 妖怪バスターたちの頭上に、影がさす。
 大樹の間近までやってきたのだ。根は大地に食い込み、足元のアスファルトをいびつに歪める。そして見上げれば高層ビルを髣髴とさせる図太い幹がそびえる。
 瑠璃がそれを見上げながら呟く。
「確かに異常ですが……邪悪なものではありません。微かながら、ご神力を感じます」
 麗がそれに同意する。
「木花之佐久夜毘売命のものだわ。恐らく封印を守るためにこれを植えたのでしょうけれども……」
「誰か、いるね」
 朱陽の言葉に、一行が身構える。大樹の根元に何人か倒れているのが見える。
 見覚えのある人影だった。
「……どういうことだ?」
 血を流して倒れていたのは、紛れもなく覆面戦士アルファとベータ……ではなく南光坊と小次郎の姿。
 そしてその先で、血の滴る刀を手にして立っていたのは。
「……馬鹿な」
 鷲塚智己が、幽鬼のごとく立っている。返り血を浴びて、薄汚れた姿で。
 彼はその目に妖怪バスターたちの姿を収める、と。
 手にした剣を自然体でぶら下げたまま、ゆっくりと近づいてきた。

○   ○   ○

 乱雑に抜かれた点滴のスタンド。
 主の居なくなったベッド。
 開け放たれた病室の窓。
 輝充郎祖父はその光景を眺めながら、傍らにいた男に尋ねる。
「いくらなんでも、うっかりし過ぎじゃねえですかい?」
 白衣に身を包み、女性のように長く伸ばした黒髪を持つ、細身の優男。それが輝充郎祖父の文句に応える。
「逃げるとは、思ってませんでしたから。少なくとも現状の彼は、動ける状態ではないはずです」
「窓に鉄格子でもつけときゃあ、良かったんだ」
「精神病院ではありませんよ、ここは。それに、つけたところで彼なら破るでしょうね」
 輝充郎祖父はため息をつく。
「動けないはずのテル坊が、なんで動いてんです?」
「普通の人間なら、絶対動けてませんよ。だけど彼はいい筋を持ってますし……彼が本来持っている妖怪の血に頼れば、動くことも不可能ではないでしょうね」
「人をやめる気かね、あいつは……あーあ」
 輝充郎が寝ていたはずのベッドに、輝充郎祖父が寝転がる。
「そんなにお友達が大切か。残念だなぁ。くたばる前に一度でいい、あいつとは一緒に酒を酌み交わしたかったんだがねえ……」

(続く)

○   ○   ○

(あとがき)

 お待たせいたしました。妖怪バスター学園発第11回「如月」です。
 ……気がつけば128キロバイト書いてたのか……どーぉなってるんだい、おいらの義務感はぁ。
 書きながらプロットを練るというあまりに行き当たりばったりすぎて泣ける状態。おかげさんで2月に至っては全然進まず、3月の時点でも約四割というていたらく。これではいかんとばかりに一日のノルマ決めて喫茶店やら何やら居座り、ようやく書き終わりましてござります。
 「一カ月に一本書くぞ」って意気込んで、ようやく三カ月に一本だ……
 さて、ラスト一回、どうまとめるかね!(前にも言いました
 各キャラの選択とか! それぞれの行き先とか! 考えること多いね!
 ……一カ月とはとても言えないけど、せめて二カ月でなんとかしたいわ。