2010年05月31日

弥生(1)

弥生
FALSE

 飛騨の山中で、奇妙な現象を目撃した者がいた。
 白昼にも関わらぬ、雷である。冬山の天気は特に変わりやすいのだが、雷はまれなことだった。特に雷鳴は、数多くの者が聞いている。
 しかし、それを見た者は更に奇妙な現象を認めている。その雷は常に山の、ある一定の位置をめがけて落ち続けていたように見えた、というのだ。
 何度も、何度も。その場所に存在するであろう何かを、容赦なく、叩きつけるように。



 山の斜面を覆っていた針葉樹林が、無残な姿を晒していた。とある一点を中心として雷の直撃に遭い、無残に焼け焦げている。
 その中心に崩れ落ちていたのは、龍波輝充郎。今は鬼神の姿で、苦しみもがいている。
 京都・烏丸神社で呪詛の直撃を受けて、絶対安静の大怪我を負ったのが、つい先日の話である。本来ならば、まだ動ける状態ではない。しかしそれでも、彼は東京で戦っている同僚たちの下に駆け付けるべく、自らの妖怪の血にすがった。
「ぐう……う……」
 鬼神化してから、人間としての自我を失い破壊衝動に飲まれるまでのタイムリミットは、わずか十分。その限界はとうの昔に越えている。しかし変身を解けば、鋼のごとく強靭な鬼神の筋力のみで支えているこの体は、間違いなく自重によって破壊され、もう二度と動くことは適わないだろう。その一心を以って京都からここまでやって来たが、輝充郎の精神はもはや限界だった。
 剣術研究会の同僚たちの顔が、千々になって消えていく。その上に上書きされていくのは、純粋な、暴力と破壊への欲求。何度も、何度も、暴走しようとする自らの力を周囲に逃がし続けているうちに、輝充郎はその行為がだんだん楽しくなっているのを感じていた。
 そうだ。連中のことなどどうでもいいではないか……連中って誰だったっけ? まあそれもどうでもいい。
 木を相手に当たり散らすくらいでは、もはや足りない。もっと血沸き肉踊る、強大なものを相手にこの力を振るうのが、この龍波輝充郎の……いや、炎雷鬼神・皇牙の生き甲斐である。
 さあ、誰か。誰か。この俺に挑める猛者はいないか。いやいや、こんな山奥ではそれも望めまい。探さねば。俺を倒してくれる猛者を探さねば……?
「こんにちは、輝充郎さん」
 唐突に聞こえた何者かの声が、輝充郎の思考を遮った。おっとりとした女性の声。
「誰だ!?」
 声の主は、すぐ背後にいた。艶やかな葦毛と、燃えるようにそそり立つたてがみを持った、一頭の美しき駿馬。
「……ブル……ファント……ム……?」
「ここは、お久しぶり、と言うべきかしら。それとも、ようこそ、と言うべきかしら? あまりに強い力を振りまいていらしたから、見つけるのは楽でしたわ」
 その馬の名は、馬神ブル・ファントム、あるいは馬崎蒼子。様々な意味で鬼神となった輝充郎の「乗馬」である。
「何の、用だ」
「こちらに戻ってくるのに難儀していたようですから、お迎えに上がりましたの……我が背に乗せる前に、一つだけ、確認したいことがあります」
「……?」
「覚えて、いらっしゃいますか? 私があなたの乗騎にして乗機となるために、交わした契約を。私は私の怨敵を探すために。そして、あなたは」
「……俺は……」
 記憶が次第に甦っていく。それはかつて、暴走する妖怪を食い止めるための急場の契約として、輝充郎と蒼子の間に交わされた一つの約束。結果としてその契約は破棄されぬまま、今日まで続いている。
「……俺は、人間に仇なす妖怪どもを全て葬るために……」
 …………。
 そうだ。何を迷う必要がある。
 探す必要など、なかったのだ。
 俺の倒すべき相手は、まさにそこにあった!
「覚えていてくださって、よかったですわ。それでこそ、私の乗り手に相応しい」
「居るのだな、ブル・ファントムよ。俺の敵が」
「その通り」
 蒼子の体の節々が歪み、馬ではない何かに変貌を始める。輝く毛並みは金属の光沢に。頭部は扁平なノーズに。四本の足は丸く畳まれ、二輪のタイヤに。そしてその有機的な馬体は、流線のフォルムを持つ無機的なバイクの車体に。
「さあ輝充郎さん、我が背にお乗りなさい。私があなたを導きましょう。あなたが倒すべき、敵の元へ」
「おう!」
 吠える輝充郎に、何ら戸惑いはなかった。彼はその身を翻して馬神ブル・ファントムの背に飛び乗ると、スロットルを全開にする。
 山の斜面を滑るように、バイクは走り出した。道などない斜面も、うっそうと生い茂る木々も、彼らの前には何ら障害とならない。全てをすり抜け走る姿は、一陣の風のように。
 そして二人の妖怪は、彼らの敵が待つ決戦の地へと向けて、猛進を開始する。
 混沌に覆われた都市、東京都汝鳥市へ。

○   ○   ○

 目の前の状況に対して、ネイ・リファールは一つ、ぽん、と手を打った。
「よっし、分かった!」
「うわあい、金田一に出てくる刑事なみの信頼感」
 冬真吹雪が、冷めた声でそれに応じる。
 東京都汝鳥市街。彼ら妖怪バスターたちは、大厄・供馬尊の半身が封じられた封印の真上に立つ、桜の巨木の前にやってきていた。そこに立っていたのは、南光坊と相馬小次郎を斬り捨てたとおぼしき、鷲塚智己の姿だった。
 その智己が、近づいてくる妖怪バスターたちを前に、剣をだらりとぶら下げている。警戒を解くどころか、相手が彼らであると気づく様子もない。
「これはいわゆる洗脳だな。同士に手が出すことのできない正義の味方の甘さを突いた、敵の卑劣な作戦よ」
「大体分かってますよ、正義の味方って柄じゃないけど。で、どーすんです?」
 ネイが胸を張る。
「決まっていよう。こういう時に洗脳を解くための手段と言えば、愛する者の心からの接吻というのが相場であろうが。さあ、鷲塚の恋人は潔く名乗りを上げよ!」
 断言された。
 念のため、吹雪が背後を見る。
 彼だけではない。鴉取真琴が、多賀野瑠璃が、堀サワンが、一斉に同じ方向を見る。
「……私ではないぞ。そも正式に交際していない」
 柚木塔子が憮然としている。
「そこは、それ。公然の了解って奴でしょ」
「それで鷲塚の暗示が解けたら、苦労はしない!」
「まあ、まあ。君が熱くなってどうする」
「あ……」
 塔子はサワンに肩を叩かれて、我に返る。
「キスまでやる必要はないけどさ。智己にはこちらが戦う意思がないことを示せればいいんじゃないかな。君はこの中では、失礼だけれど、非戦闘要員だし」
「それはまあ、確かに」
 と応じつつ、塔子はよくよく周囲のメンバーを見てみる。みんながみんな、強力な剣客、あるいは体術の使い手、そして術の使い手である。……そう、自分を除いて。ネイは……正直、あのタフネスなら多少の窮地でも何とかしてしまいそうな怖さがあるので、例外とする。
 自信がないものは外に残っていてよい。と、確かに自分はそう言ったけれども。よくもまあ、自分自身がこの汝鳥に入ろうなどと思ったものだ。ここまで妖怪バスターの一人としてやってきたのなら、最後まで見届けたい。そんなエゴがあったのかもしれない。
 しかし体力は人並みに及ばず、自らの霊力を押さえつける呪刻印により簡単な術式しか使うことができない、そんな自分に何ができると言うのか。肝心の指揮に関しても、先の供馬尊戦においては交渉を決裂させ、部員たちは善戦したが及ばず、吸血鬼・浦戸辰之進の復活まで許してしまう始末。
 ちっとも、役に立ってない。
 せめて身を蝕む呪いさえ退いてくれれば、バックワードとして役に立つ機会も望めたかもしれないが……それは、過ぎたる願いだ。
「……分かった。私が、鷲塚と話をしてみよう」
「ちょっと待った、先輩」
 吹雪が手を挙げる。
「リファール先生の主張はさておき。相手は一人、こっちは大勢ですよ。奴の目を覚まさせるにしても、まずは取り押さえるのが先じゃないですか」
「それもそうだな。では、よろしく頼む」
 吹雪らが一斉に前に出る。それを見た智己が目を細め、警戒の色を強める。
「おい、お坊ちゃん! 迎えに来てやったぞ、感謝しやがれ」
「はいはい、怖くなんかないからねー。俺らのこと、まさか忘れたとは言わないよな?」
 近づいてくる妖怪バスターたちを前にして、しかし智己はじりじりと後ずさりを始める。囲まれるのを嫌うかのように。
「……どうにも気づいてないみたいね」
「それじゃあ、とりあえずひっ捕えますか。せーので取り囲んで、一気に、ばーっと」
「私らを恨むなよ、坊ちゃん。これも寝坊助なあんたが悪い」
 妖怪バスターたちが、智己との距離を徐々に縮めている。塔子はそれを眺めながら、一抹の不安を感じ始めていた。
「……おかしいな」
 瑠璃が尋ねる。
「何がですか?」
「仮に鷲塚が洗脳されていたとして、それを泳がせておく理由が分からない。葦矢の一味はあいつを、封印を解くための鍵として利用しようとしていたはずだ。その動向を、彼らが野放しにしておくだろうか?」
「それは、確かに……」
「おいみんな、少し……」
 少し待て、と、かけようとした声は、ほんの少しだけ遅かった。全員が全員、智己を包囲するべく身構え、飛び出すタイミングを整えている。
「いち、にー、のー」
 さん、で飛び出そうとした、その瞬間。
 乾いた破裂音が周囲に響き渡った。それと同時に、妖怪バスターたちの眼前で火花が散り、桜の根がわずかにえぐれた。
「!?」
 思わず、前のめりになる。目の前で弾けたのがライフルの弾丸であると気がつくのに、数秒が必要だった。
「狙撃!? 連中、銃器まで持ってやがったのか!」
『困りますなぁ。がっついた真似をしてもらっちゃ』
 火線の方向を探す妖怪バスターたちの耳に、葦矢萬斎の声が届く。
「……気に入らねぇな。もう俺たちは、手の平の上ってか」
 木の根の影から、一人の人物が現れる。
 顔には嗜虐的な笑みをたたえ、肩にスピーカーを担いだ、黒服の女性が。

弥生(2)

 桜の木の上で、トウカ・イーオス・ラインバーグ……の体を乗っ取った供馬尊と、吸血鬼・浦戸辰之進が、その光景をあっけに取られたまま、見下ろしている。
 供馬尊が、ぽつりと呟く。
「……いったい、何が始まるんだ?」
「そりゃあ、こっちが聞きたいよ……しかし、あの声。この前の御仁じゃあないか? 君の半身の封印を解くのに協力すると言っていた」
「腑に落ちないな。その協力と、目の前の光景とが、どうにも結びつかない」
 しきりに首を傾げる二人の耳に、再び萬斎の声が届いた。
『ご覧の通り、鷲塚君には少々暗示にかかっていただいております。彼の暗示を解きたくば、しばし私の余興に付き合っていただきましょう』
 供馬尊が、表情を険しくする。
「確かに、あの男の声だ。余興だと? ふざけている。その余興とやらが、この封印を解くのと何か関係があるというのか?」
「……案外、そうかもしれないよ」
 辰之進は、目を丸くする供馬尊を横目で見やる。
 再び、萬斎の声。
『数で押し切るのはいささか無粋でございましょう? ここは正々堂々、一対一の勝負と行こうじゃないですか。皆様の中から誰か一人を選び、鷲塚君と戦ってください。運がよければ、戦いの中で鷲塚君の暗示が解けるかも知れませんねえ』
 供馬尊が、失笑を漏らす。
「何が正々堂々、だ。彼らを鉄砲で狙って、一方的な条件を押し付けようとしているくせに」
「なるほど、読めたぞ。あの御仁、特定の誰かとあの少年を戦わせようとしているね」
「特定の誰か、とは?」
 辰之進は、すい、と、妖怪バスターたちの後方を指差した。指先には、手に宝刀・備前長船を抱えた真琴の姿。
「あの不釣り合いな刀を抱えたお嬢さん。それから、あの少年。双子の兄妹だそうだ。私は一時期彼らと行動を共にしていたが、あの兄妹がこの封印を解くための鍵だって聞いている」
「双子は古くも今も吉兆の証か。この封印の袂で彼らが殺し合うことが、封印を解くために必要だというのか?」
「恐らくは。ただ、彼らがそんな簡単に誘導に乗るものかねぇ。彼らとて、あの御仁の目論見に気づかない、なんてことはないだろうし」
 無言で、供馬尊が立ち上がる。
「行く気かい?」
「乗ってやるさ。奴が何を考えているのかは知らんが、今は半身の封印を解くのを優先する。それであの子供らがどうなろうと、知ったことか」
「ま、君がそう言うなら。お手伝いしますか」
 辰之進の姿が、たちまちのうちに無数の蝙蝠へと変化する。それらは立ち上がった供馬尊に次々しがみつくと、彼を抱えて上空へ飛んだ。
「奴の誘導が潤滑に進むようにしたい。下に降りたら一度二手に分かれよう。子供らが何か仕掛けるようなら、行って妨害する」
 その声に応じて、蝙蝠の群れが、妖怪バスターたちの視界を外すように下へと移動を始める。



 萬斎の声と、二人の大妖怪のやり取りとを、ジョシュア・クロイスは供馬尊の背中で黙って聞いていた。
(いけない。このままでは……彼らが前の二の舞になってしまう)
 供馬尊が、先の妖怪バスターたちに振るった暴力に対して、ジョシュアは何ら彼の抵抗になり得なかった。
 マリア・ロックウェルが。御神鋼音が。ジョシュアの目標である「一つの指輪」の力によって、次々と打ち倒されていくのを彼は目の当たりにしている。しかも手を下したのは、長老の予言に現れた協力者であったはずの、トウカ本人である。例え彼女の意思ではなかったにしても、やったのはトウカの体である。それは間違いない。
 ああ。やはり。やはり。
 間違いなのだ。供馬尊に「一つの指輪」を持たせておくのは。
 彼は「一つの指輪」を、自分が作ったものであると主張している。真実なのか、嘘なのか、そんなことはもはやどうでもいい。
 はっきりしているのは、「一つの指輪」の力が耐え難い「同士討ち」に用いられているという、紛れもない事実である。
 止めさせなければ。まがまがしい指輪を用いて、トウカの体を用いて、これから行われる全ての悪事を、何としても止めさせなければ。
(しかし……)
 ジョシュアは全ての神経をトウカに集中させる。心拍数、心音、呼吸音、これ全て平常通り。
 供馬尊の話では、トウカの意識は現在も眠ったままだという。
 そんな、馬鹿な。
 トウカの潜在的な能力の何たるかを、ジョシュアは理解しているつもりである。チャネリング。日本風に言えば、イタコの口寄せ。死者の霊を呼び寄せ、その言葉を現世に伝えども、死者に完全に体が乗っ取られるようなことがあるというのか。
(トウカ君。君は本当に眠っているのか? このまま彼が君の体を用いて悪事を働いて、君はそれでもいいというのか?)
 ジョシュアの内心における、トウカに対する呼び掛けは、やはり通じていないように見えた。

○   ○   ○

 意識が戻ると同時に、軋むような痛みに全身が苛まれた。
 どうにも、死に損ねたらしい。情けない。恐らくは学生生活最後の、妖怪バスター活動となるであろう戦いで、不様を晒すとは。
 蓮葉朱陽は、うまく供馬尊を仕留められただろうか? 駄目なら駄目で、ここまでしてやった先輩のために、礼がほしいものだ。
 そうだ。もう一人、渋々ではあるが、囮役を承知した後輩の方はどうなった?
 気になって、マリアは両目を開ける。
 病室、ではなかった。一般の住居とも違う、整いすぎた居住空間。ホテルの一室だ、と理解するのに、しばらく時間がかかった。傍らには点滴装置のポール、そして自らの全身は、包帯で固定されているのが、感覚で分かる。
 そしてその隣のベッドが、こんもりと膨らんでいるのは。
「……おーい、鋼音ぇ。生きてるかぁ?」
「……うぁ?」
 間抜けな返事。しかし遺体が安置されていたわけではないと分かって、少し安心する。
「……どこすか、ここ」
「オイラだって、わかんねーよ。病院じゃねーし、その割には、ずいぶん念入りな治療だし」
「…………」
 隣で横になった御神鋼音からは、返事が返ってこない。
 まだ寝ぼけてるのか。一瞬、そう考えたのだが。
「……くー、やー、しいいいいいいいいい」
 か細い悲鳴が、ようやく返ってきた。思い出したらしい。
「しかも、なんでこんな私らボロクソなんですかぁ。あの巫女、本当にきちんと結界張ったのかぁぁあ?」
「張ってたさ。確かにな」
 マリアは、供馬尊から力場の直撃を浴びた時の、あの衝撃を思い出す。
 それは力任せの一撃ではなく、一点に力を集中させた「爆発」だった。
 マリアが食らったのは、その直撃だ……仮に烏丸香奈の結界が効力を発してなければ、マリアの小さな体は、その場でばらばらに砕け散ってもおかしくはない。
「……でも、野郎の戦い方が、それ以上にうまかっただけだ。あの野郎、戦い慣れてる。いったいどんだけ修羅場をくぐったんだ?」
「……朱陽、大丈夫ですかね」
「ここに転がってないってことは、息災ってことだろう? 結構なこった」
 寝室の扉が、おもむろに開かれる。
「なんだぁ。意識が戻ったか」
 姿を表したのは、中肉中背のいかつい顔をした男。しかし後頭部に結った髷と、純和風の着流しとが、男の平々凡々たる容姿を、特異なものへと変えている。
「おっさん、誰?」
「烏丸からは聞いてないか? 京都からはるばる東京くんだりまで手伝いにやってきた、しがない医者だよ。ほかにも腕のいいのはいるだろうに、人より頑丈だからってんで、俺に白羽の矢が立った」
「……?」
 見た目、頑丈そうにはとても見えないのだが。一挙動の度に、何かぎいぎい軋むような音が聞こえるのは、気になるけれども。
「……それで、ここはどこだ?」
「俺らが取っている宿の中。あんたらの怪我は下手に普通の病院入れちまうと、ポリスに根掘り葉掘り聞かれて大変だろう? だからここに担ぎこまれた。
 いやはや、手持ちの器具だけであんたらの処置をするのは、骨が折れた。応急処置がよくなきゃ命に関わったかもな」
「ほかの連中はどうしてる?」
「東汝鳥に向かったよ。ここに運び込まれたのは、あんたら二人だけだ」
 マリアが思わず身をよじる。
「だったら。あいつら助けてやってくれねえか。元はと言えば、あんたらの不始末が原因だろう。ちったぁ手前のケツ拭ってくれよ」
「言われなくたって、もう便所紙は出てるさ。ここんところ、京汝鳥は切った張ったが減って、血の気の多い連中がうずうずしてんだ。だから、な」
 ばふ、と、男はマリアの肩をベッドに押し付ける。
「怪我人は怪我人の勤めを果たせ。しっかり休み、しっかり治す。容体が落ち着いたら、ちったぁまともなベッドに移すから、な?」

2010年05月30日

弥生(3)

『さあ、どなたがおいでになりますかな? 早く決めないと、鷲塚君が逃げてしまうかも知れませんなあ』
 萬斎の声が、一帯に響き渡る。塔子は一つ舌打ちをすると、立ち止まった者たちに声をかける。
「みんな、一度集まってくれ」
 妖怪バスターたちが一度智己を見て、塔子を見て、仕方なく戻ってくる。
「……葦矢は、何をやろうとしていると思う?」
「普通に考えれば」吹雪が口を開く。「ここで身内同士の殺人ショーを観戦したい、なんてこたぁないですよね」
「だろうな。何より、彼にとって意味がない。意味があるとすれば、恐らく、この場所だ」
 目の前には、高層ビルも霞むほどの巨大な桜の木。ここがかつて、金物屋にして刀工の、播磨源蔵の住居であった面影はない。しかしその根元には確実に、供馬尊の半身が封印されているはずだった。
「ここは供馬尊が封印された場所で、葦矢は鷲塚らがその鍵であると言っているわけだ」
「と、言うことは……」
「私、ですかね」
 真琴がおずおずと口を挟む。
「……出る必要はないぞ。葦矢の狙いは、まさしくお前を引きずり出すように、誘導することにある。乗ってやる必要はない」
「でも……」
 真琴は上を見る。
 周囲は、何件かのマンションも見える住宅街。影に隠れて彼らを撃てるような場所は、幾らでもある。
「従わなければ、幾らでもルールを変えられる人たちに、知らぬ存ぜぬを通せるでしょうか……?」
「我々を、心配しているのか? それよりも供馬尊が完全な姿を取り戻して、多くの命が失われる可能性を案ずるべきだ」
「…………」
 真琴が黙りこむ。
「……とはいえ、このまま葦矢にハンデつきゲームを続けさせるのも不愉快だ。奴のイニシアチブを潰そう。その間、時間稼ぎができる者はいるか?」
「そういう、ことなら」
 吹雪が、びゅん、と大刀を担いで、前に進み出る。
「俺の出番でしょう。鷲塚とは、体が腐るほど稽古をやり込んでますからね」
 吹雪は鼻息も荒く、前へと進み出た。智己がそれを見て、身構える。
「どうしたよ? もしかして、このなりを見て思い出したか? これまで何回手前が俺に殺されたか覚え」
 口上の途中で、吹雪の体は後方に飛んでいた。
 自らの脚力で跳躍したわけではないし、そもそも何らかの危機を感じ取ったわけでもない。
 単に吹雪は、後ろから伸びてきた手によって首根っこを掴まれ、そのまま背後に投げ飛ばされただけである。
 どしゃ、と、吹雪がアスファルトの上に墜落する。
「ちょ、何すん……」
 吹雪がぶつけた肩を押さえながら、加害者に文句を言おうとして、そのまま、固まる。
 朝霞大介。
 鉄パイプを無造作にぶら下げ、背後には目もくれず、智己を見据えて仁王立ちしている。その姿に声をかけられる者など、例え相手が神でも存在するまい。
「君にはもっと、やることがあるだろう」
 塔子が、吹雪を助け起こす。
「よく考えろ。相手は銃で武装している。そしてこの場で、同様の武装を以って対抗できるのは、君しかいないだろうが」
「んー……あー、無意識のうちに避けていたというか」
 塔子の言う「武装」とは、吹雪が持つ宝具「こすもるがー」のことを指している。七月恋歌から彼に託されたその玩具のような銃は、見かけとは裏腹に強い破壊力を持っている。
 しかしこの銃には、吹雪自身が使用をためらう、二つの問題があった。一つは言わずと知れた、そのあまりにもふざけた外見。
 そしてもう一つの問題を確認するべく、吹雪は手荷物を漁る。
 取り出された寸胴な筒の底に、小さなランプが灯っている。明かりは全部で六つ。全てが、緑。
「今撃てるのは、六発だけです。それ以上撃てないこともないが、時間がかかる」
「十分だ。あちらは我々に飛び道具があることを知らない。しかもそれが、どういう特性のものであるかも分かっていない。そこから虚を突いていくしかあるまい」
「ずいぶんと細い蜘蛛の糸っすね……」
「それでも束ねて丈夫な繊維にしなければなるまい。時に、烏丸。京都からの加勢はどの程度戦闘に参加できるだろうか?」
 烏丸香奈が頷く。
「剣の心得がある者が数名。すでに、こちらへ急行するとの連絡をいただいております。また、銃の扱いに長ける者も一人……必ず、敵方砲兵との戦いに、力を貸してくれるでしょう」
「それはいいな。行って合流して、我々の状況を伝えてくれまいか」
「いやあ、それだけでは到底足りんデショウなあ」
 ウォレス・ジェラード・ラインバーグが、独り言のように言う。
「では先生、我々が、座して死ぬのが潔いと?」
「何もそこまでは言ってマセン。しかし我々は、妖怪相手の戦闘は得意デスが、人間相手となると勝手が違いマス。ここは対人戦闘のプロフェッショナルを呼んでこないと、駄目なんじゃないデスか。ねえ、リファールセンセ?」
「妾にそんな愚問を振るか。いかなる相手であろうが、必勝であるのが我々であろうが!」
「ともあれ」
 塔子が強引に締める。
「どの程度の銃口がこちらに向いているかは知らないが、まずはそれを逸らす必要があるな。
 全員、二人組を組め。先生たちも。全員別方向に散開して、狙撃手の狙いを惑わせるんだ。離脱できたものは、各自狙撃手の捜索と排除、それから増援の要請に回れ」
「もし、離脱できなかったら?」
「生き残れ」
 妖怪バスターたちが苦笑いする。
「シンプルったらないな。けど、それしかない、か」
「仕方がないね。こういう状況であてになんのは、個人個人の判断力さ」
「それでは全員、覚悟を決めて……」

「ヒャアッハアアァーーーッ!」

 大介のおたけびが合図に代わった。
「Go!」
 脱兎。
『ああ、ちょっと。離れてよいとは言っておりませんよ?』
 葦矢の声が聞こえてくるが、聞く耳持たない。
 蜘蛛の子を散らすようにとは、まさにこのこと。妖怪バスターたちは大介と智己を残し、四方八方へと散っていく。
 一方、大介はウォークライと共に智己へと飛びかかっていった。重々しい鉄パイプが振り下ろされる。対する智己は、それを剣の一本で受け流す。
 過酷な戦いの、幕開けだった。

○   ○   ○

 汝鳥市内の一角にある雑居ビル。幾つものモニターが並ぶ部屋の中に、葦矢萬斎は居た。方々へ散っていく妖怪バスターたちの姿をモニター越しに眺め、萬斎が唸る。
「こりゃまた。厄介なことになりましたなぁ。だがこれはこれで、面白い」
 そう言って、萬斎は背後に控えていた黒服の男を呼び寄せる。
「地蜘蛛衆に動員をかけなさい。今なら姫巫女の母体になる逸材が、よりどりみどりですよ」
「は。しかし今、地蜘蛛は姫巫女の捜索にかかりきりで、その他のことには手が回らぬようですが」
「中断させなさい。どのみち召還陣も、蜘蛛神も、封印を解くための保険と、そのまた保険に過ぎません。回天ともなれば、蜘蛛神など幾らでも呼び放題だと言って、説得するのです」
「かしこまりました。では早速に」
 黒服数人が、部屋の外へと消える。残った黒服たちに、萬斎が言う。
「しかし……なかなか賢いですなぁ、青少年諸君は。もしかすると、私の狙いにもうすうす感づいているやも知れません」
 黒服たちは、黙って萬斎の話を聞いている。
「ですが、まだまだ諦めませんよ。どんなに相手が賢かろうが、強かろうが。私は、いや、我が一族は、それだけのために、これまで、ずーっと、準備を続けてきたのですからねえ」
 黒服たちが息を飲む。萬斎の発するどす黒いオーラに、その場にいた全員……安倍川松子を除く……が気圧された。
 それだけのものを感じさせる執着と発想が、萬斎には備わっている。この男の状況対応能力は、他者を遥かに凌駕していた。
 本来、智己に暗示をかけて真琴と戦わせようとするなど、当初の計画にはなかった話である。しかし汝鳥市が無法状態になっていると知るや、萬斎はすぐさま狙撃手をかき集め、市内に展開した……まるでそうなることが予見できていたかのように、彼は弟子の何人かに銃の訓練をさせていたのである。
 誰もが思いつかないようなアイデアを着想し、実行に移す萬斎に対して、彼の門弟たちは一種の畏怖のようなものを感じながら、それに従っている。
 今の萬斎なら、神すらも欺くかもしれない。そんな根拠のない確信だけが、門弟たちを盲信へと導いていた。
「そうだ、君たち」
 萬斎が不意に話し掛けてきた。黒服たちが緊張する。
「今なら鴉取のご令嬢の周辺も、手薄になっているはずです。行って、捕まえてきてもらえますか」
 黒服たちが重々しく頷いて、行動を開始する。もはや、その行為が犯罪かどうかなど、どうでもいい。
 ここまで盛大な騒ぎを引き起こしておいて、今更不問で済むなどとは思っていない。毒食らわば、皿までもである。

弥生(4)

「春菜ちゃん、香奈ちゃんを汝鳥の外まで連れて行ってもらえる?」
 ビルの影で、真琴が立ち止まって高槻春菜にそう告げる。
「真琴さんは、どうするの」
「戻って、見届ける」
「危険よ。いったんあの場所から離れるべきだわ」
 しかし、真琴は動かない。
「私には、そうする義務があると思うのよ」
 備前長船を握る手に、力が篭る。春菜は黙って、その様子を見る。
 本当に危険ならば、縛りつけてでも汝鳥の外に置いていくべきだった。
 しかし、結局は、誰もそれをしなかった。全てにおいて、真琴の考えが優先された。
 戦力としての位置づけは低い。しかし彼女もまた、妖怪バスターである。何を以って最善であるかは、彼女自身が一番よく知っているはずだ。
 春菜は背後を見る。香奈が無言で頷いている。
「……分かったわ。くれぐれも、無茶はしないようにね」
「ありがとう」
 真琴がくるりと背中を向ける。今は真琴の最善を信じようと思う。
「真琴さん?」
 一度、真琴を呼び止める。春菜は振り返った彼女に、一言告げる。
「生きて、また会いましょう」
「ええ」
 そして三人は、二手に分かれて走り出す。春菜と香奈は、汝鳥の外へ。そして真琴は汝鳥の中心、供馬尊の封印へと。

○   ○   ○

 ネイが舌打ちをする。
「ちっ、部員どもとは離れ離れか! ……おい下僕、何をしている?」
 みなと そら は、ネイの視線の先で、じっと携帯電話を見つめている。
 電波状態は、圏外。恐らくは、近くにある携帯電話の基地局が、市内のインフラ閉鎖によって機能しなくなっているのだろう。
「助けを呼ぶわ」
「電話が通じぬ状態で、どうやって連絡を取る?」
 そらは、いぶかるネイの質問に対して、行動を以って答を返した。
 彼女は、自らの頭頂に垂れる兎の耳に手をかけて上に起こす。じゃきん、と、二本の耳がまっすぐ天に向けてそびえ立つ、と。
「……通じるから、大丈夫」
 見事に五本の棒が立った携帯電話の液晶を、ネイに見せる。
「……貴様の耳は、いつからアンテナになったのだ?」
 そらはその質問には答えず、短縮ダイヤルのボタンを押す。

○   ○   ○

 ウォレスは裏路地を、ひたすら走り進んでいた。
「あのー」
「何デスか、ラピス?」
「こういうことしてくれなくても、ちゃんと走れますから」
「命のやり取りしてる真っ最中デスからね、念には念を、デスよ」
 両腕に瑠璃を抱える、いわゆるお姫様だっこのままで、走るのを止める。
 オカルト・ミステリー倶楽部の部員の中では、最も運動神経と縁遠いと思われる彼女の腕を真っ先に引いたのは、ウォレスらしい判断と言えるだろう。
 ついでに言えば、瑠璃がネイに引きずり去られるのが、少々不敏だったからでもあるが。
「ま、この狭いトコにまで逃げ込めば、銃に晒される危険は少なくなるデショうね。こっからは自分の足でお願いしマス」
「ええ」
 ウォレスはゆっくりと瑠璃を下ろす。
「どーにも、両手がフリーでないと、この先まずいことになりそうデスしねぇ」
 ウォレスは瑠璃を立たせながら、背後を見やる。何者かの足音が近づいてきているのが、聞こえたからだ。
 暴走した市民だろうか。それとも萬斎の追っ手だろうか。いずれにせよ、直接戦闘に向かない瑠璃の盾にならねばなるまい。
「あのう」
「何デスかラピス、できれば手短にお願いしマス」
「近づいてくるのは、敵じゃないみたいですよ」
「うん?」
 瑠璃に言われてみれば。聞こえてくる足音は、どうにもたどたどしい。
「お、置いてかないでくださいですじゃ……」
 情けない声を上げながら、七月恋歌が現れる。「ぼてぼて」という擬音が実にしっくりくる。
「あー……アナタもいたんデシタっけねぇ」
 前のめりに、こてんと倒れる。慌てて瑠璃がそれを助け起こす。
「大丈夫ですか。えーと……」
「レンでも恋歌でも、お好きにお呼びくださりませ。……こんなことを瑠璃様に頼むのは、恐縮なんですじゃが」
「はい?」
「八歳様を探していただけませんですじゃか?」
 ウォレスが顔を歪める。
「えーと……? ヤツトセ、つったら、お狐様の怖い方、デスよね? 朝霞くンの話では」
「そんな怖くはありませんですじゃ……八歳様は恐らく、街がこのようなことになっているのを収集するために、相当お力を消耗しておいでですじゃ。
 七月宮は本来、八歳様とわてとで一柱。わてがいなければ、神通力も完全に発揮できませんですじゃ」
「本来の力……体育祭ン時、剣研相手にボロクソぶちかましたみたいのデスかねぇ」
 ウォレスは若干の危惧を口にする、が。瑠璃の返答は明快だった。
「探しましょう」
「いいんデスか?」
「本来、供馬尊の封印を守っていたのは、あの方ですから。万全でないというなら、助けないと」
 ふむ、と、ウォレスが鼻を鳴らす。
「冬真くン辺りが文句言いそうデスが……ま、ラピスがそれを望むなら、アタシも協力しマショう。ただ」
 悪寒がぞくりと、体を通り抜けていった。それとともに忍び寄る、人のものとは思えない何かの足音。
「一筋縄じゃあ、行かないと思いマスがね。何を探すにしても」
 物陰から、ビルの上から、地蜘蛛の醜悪な姿が露わになる。
「……狭い場所逃げても、危険デシタ」

弥生(5)

 …………
 くすくす。
 くすくす。
 耳障りな笑い声が聞こえてくる。
 くすくす。
 くすくす。
 煩わしい。不愉快だ。何がそんなにおかしいのか。
 くすくす。
 くすくす。
 いい加減に止めろ、そのふざけた笑い声は!
 くすくす。
 くすくす。
 だから止めろと言っているのに。だから。だから。

 そんなに私を笑うなっ!

「あらあら、なんであなたのことを笑っているって分かるナスー?」
 聞き覚えのある声。特徴的な語尾。
 不意に、眼前に映像が現れる。
 信じられないほどに長閑な光景。
 一面に広がる草原。
 そよぐ風。
 そしてその中央に敷かれた、ピクニックシート。
 ランチバスケットを広げて、その中心にちょこんと正座して。
 茄子のヘタを思わせる一本お下げ。高原那須子が、毒っ気のない笑みを浮かべてこちらを見ている。
「まさかそなた、生きて……」
「そんなわけないナス。あんな爆発の中で生きてられる方がおかしいナス?」
「で、では」
 これは幻影か。断末魔の悲鳴にも似たあの洗脳音波によって、自身に植えつけられた幻影なのか。
 そうだ、あの爆発。普通なら生きていられるものではない。神に選ばれし妖であるところの、この私を除いては。
「くすくす」
「……何がおかしい」
「何を、自分を特別な存在だと思い込みたくて、変な設定を自分にくっつけちゃった中学生みたいなことを言ってるナス? そんな姿で選ばれたとか何とか言っても、全然説得力ないナス」
「そんな姿……?」
 両手を見る。鋭く伸びていたはずの爪が、綺麗に切り揃えられている。
 額に触れる。地蜘蛛の姫巫女に与えられる、蜘蛛の目を模した冠の感触がない。
 これでは、ただの、人間。
 妖力を失い、全ての力を失った時の、人間とまったく変わらない姿。
 動揺する巫呪姫を前に、那須子はただくすくすと笑い続けている。
「どっから見ても、ただの人間ナス。背伸びして妖怪ヅラしたところで、ろくなことなんてないナス」
「黙れ」
 巫呪姫は拳を震わせる。
「妖怪として生を受け。妖怪として教えを受け。回天の女王となることを夢見て、妾はこれまで生きてきた。それがいきなりお前は人間であると、心の底より忌み嫌う人間の血が混じっていると言われて、はいそうですかと受け入れられるか!」
「まー、落ち着きナス。生まれを選べないのは人間も妖怪も同じナス。とりあえず茄子茶でもどうナス?」
 那須子は傍らにあった水筒の蓋を開けると、紙コップに黒い液体を注ぐ。
「何故に妾が、そなたと肩を並べて仲よく茶など飲まねばならぬ」
「そう水臭いこと言わないナス。お互い打算はあっても、共に肩を並べて戦った仲ナス? それに、那須子たちは似た者同士ナス」
「妾と、そなたが?」
「その通りナス」
 巫呪姫の隣から声。いつの間にか、那須子が自らの右側で微笑んでいる。
 はい、と那須子から茄子茶が入った紙コップを押し付けられる。そこで初めて、巫呪姫は自分までピクニックシートに座らされていることに気がついた。
 那須子が移動したのか。巫呪姫が移動したのか。
 それとも、これは幻影であるからして、もはや何でもありなのか。
「那須子もこれまでずっと、地球人を憎むよう教えられて育ってきたナス」
 そう言って、那須子は自分の手にした茄子茶の紙コップに、口をつける。
「那須子の生まれたナスナス星は、那須子が生まれる前から、ずっと地球人を観察してきたナス。那須子たちが見たものは、文明の発展につれて次第に自分たちの理解の及ばないもの、アヤカシの扱いをないがしろにしてきた地球人だったナス。今のままでは、地球人と友好的な関係を築くことは不可能ナス。だから、那須子たちは、地球人の統制管理を決意したナス。
 ナスナス星王家第二皇女だった那須子は、少しでも高い王位継承順位を手に入れるべく、地球制圧の最前線に自ら立つことにしたナス」
 口にしかけた茄子茶を、思わず吹きそうになった。
「……そなたが、王女ぉ?」
「人を見かけで判断しちゃいけないナス。……それで那須子はこの日本のアイドルになって、人心を掌握する作戦に出たけれど、志半ばでこの有様ナス。まったく、地球人のしぶとさたるや、一筋縄では行かないナス」
「……ずいぶんと饒舌に語るのだな。幻影風情が」
「あら、ひょっとして、気がついてないナス?」
「何がだ?」
「確かに高原那須子の肉体は滅びたナス。でもその精神はしっかりと、あなたの心の中に生きてるナス。この周囲の映像が、その証拠ナス」
 一瞬、巫呪姫は那須子の言葉の意味を図りかねた。それは死別の物語にありがちな、故人の精神を末永く思う的なアレではなく。
「……妾の、中に?」
「あなたは那須子の最後のライブを一番間近で聞いて、しかも一人生き残ったナス。街中の人たちを動かしたあのライブが、あなたに何の影響も与えなかったわけがないナス」
「何を、馬鹿な。妾と市井の凡愚どもとを一緒にするでないわ」
「その凡人の血液が、あなたには半分混ざってるナス? まあ信じようと信じまいと自由だけれども」
 話が逸れたナス、と、那須子は笑う。
「那須子は制圧の過程で色々な地球人を見てきたけれど、その愚かさは大体、教えられてきたものと同じだったナス。でも、そんな地球人でも、那須子は一つだけ評価してるものがあるナス」
「ほう? 何だ、それは」
「自分たちの正義には、呆れるほど忠実なところナス。頑固、と言い換えてもいいナス。那須子はアイドル活動でたくさんのファンを手に入れたけれど、一番近くにいたはずのあいつらだけは、ちっともなびかなかったナス。
 あいつらが、アヤカシを狩る立場だったから。あいつらが一番アヤカシのことを理解していたってのも、皮肉な話ナス」
「あいつら、か」
 巫呪姫は「あいつら」のこと、最も間近で自分たちと戦った、妖怪バスターたちのことを思い出しながら、茶を啜る。
「お味はいかがナス?」
「まずい。やはり妾の口には合わぬ」
「そう言わないで、全部飲むといいナス。滋養強壮、人間妖怪問わず効果は抜群ナス。まあそういうわけで」
 那須子は巫呪姫の肩に手を置いた。
「あなたは妖怪の血も人間の血も、どちらも大切にするべきナス。妖怪のよいところも、人間のよいところも、みーんな引き継いで、強く生きるといいナス」
「よいところ、か。妾に正義などという言葉は、不釣り合いにもほどがあるがな」
「そんなことはないナス」
 そう言う那須子の体が、ぼやけ始める……彼女だけではない。巫呪姫を除く、周囲のピクニックセットが、草原が、全ての風景が、である。
「正義ってものは、それぞれの妖怪によって、人によって違うものナス。あなたはあなたの正義と信じるものに従えば、それでいいナス」
「待て、高原」
 風景と共に溶けていく那須子に向けて、手を伸ばす。
「妾は、その正義を、同胞によって奪われてしまった! そんな妾にいったい、どんな正義を持てと言うのだ!」
「そんなこと──」
 巫呪姫の視界が、完全な闇に包まれる。那須子の言葉を、最後に残して。

 正義は、また新しく作ればいいだけのことナス。

弥生(6)

「……?」
 次第に、固い地面の感触と、焼けるような痛みとが、巫呪姫の体を包み込んでいく。
(……そうだ。妾は地蜘蛛どもに食われて……)
 確かに、蜘蛛神召還の生贄として、食われた。そのはずだった。
 しかし、この全身を駆け巡る痛みはどういうことか。閻魔に裁かれる前に、一足飛びに地獄へと落ちたか。
 しかし体に、四肢に、感覚が残っている。完全に食われていない。それどころか、生きている。
 ゆっくりと、目を開ける。
 そのままごみ箱に捨てられていても、おかしくない有様だった。地蜘蛛衆の姫巫女が纏う正装が、ずたずたに引きちぎられ、体のそこかしこが醜くえぐれている。その傷口からは赤黒い泡がぼこぼこと沸き立ち、欠損した体をわずかながら、再生しつつある。
 やはり。殺されていなかった。しかし、どうして。それにここは、どこだろうか。確か自分は、地蜘蛛らと共に、召還陣の一端で蜘蛛神召還の儀式を行っていたはずだが。
「あーら、ようやくお目覚め?」
 聞き覚えのある声が、間近で聞こえた。見ると、八本の狐の尾が背中に揺れる、尖った耳を持つ女が、手すりに手をかけたままこちらを見ている。この街の封印の一柱、稲荷神の七月恋花。
 なぜ自分が生きているのか理解するのと同時に、果てしない疑問が脳裏から沸いて出た。
「なぜ……妾を助けた」
「あいつら、厄介なもの呼び出そうとしてたからねぇ。止めただけよ? ここで死なれるのも面倒だから、生かしてるだけ」
「……そうか」
 納得すると同時に、深い絶望が全身に満ちていく。やはり、地蜘蛛たちは自分を殺そうとしていたのか。姫巫女の魂を媒介に、蜘蛛神を呼び出そうとしていたのか。

 ──常日頃より、仰せではありませんか。回天のためには、尊き犠牲が必要である、と。それがご自身になっただけのこと。何をためらう必要がございましょう。

「……ふ、ふふふ、ははは」
「あら、何笑ってるの。死にそうな目にあって気をおかしくしたのかしら?」
「なんとも身勝手なものよ! これまで理想の世界を目指して多くの者を殺し、糧としてきたというのに。当の妾が、理想のために自ら犠牲となることを、よしとせぬとは!
 実に、身勝手……確かに、高原の言う通りであった……妾は、醜き人間の血族じゃ……」
 自然と、目に熱いものが溢れた。辛うじて動く腕で涙を拭い、暗くなった世界に恋花の声が差し込んだ。
「まあ、よくある話よ。特別な役割を背負わすために、人と人外の合いの子を作るってのは。
 あの茄子っ子に何を言われたかは、知らないけれども。それで、あんたはどうするよ? 世界に絶望して自ら命を絶つ? 普通に死ぬだけなら、ここから飛び降りれば楽勝で死ねるだろうけど」
 と、そう言われてようやく、巫呪姫は自分がどこにいるのか気がついた。汝鳥市内の、ビルの屋上。
「まあ、これ以上手を出す余裕はないし。ここから先どこに行くのかはあんたが決めなさい。ここから逃げるもよし、蜘蛛連中のところに戻って、食われるもよし。
 動くなら早めがいいわ。なぜか知らん、地蜘蛛の捜索の手が今なら手薄な感じだし」
「何……?」
「封印の近くで銃声みたいなものが聞こえたし、多分何か動きがあったわね……私はそろそろ行くから。レンも呼んでるみたいだしね」
 言うや、恋花は屋上から飛び出していった。呼び止める暇すらない。
 銃声。もしや、御大か。
 知らされていなかった。いや、知らされなくて当然か。
 御大・葦矢萬斎は、巫呪姫が生まれる前から地蜘蛛衆と協力関係にあったという。であるからこそ、萬斎には積極的に従ってきたのであるが……萬斎は恐らく、巫呪姫の、地蜘蛛の姫巫女の、本当の役割もご存じなのであろう。
(今更、地蜘蛛には戻れぬ。御大にすがるわけにも行かぬ。妾はたった一人になってしまった……いや、二人か?)
 直前に見た夢は、しっかりと巫呪姫の脳裏に焼きついている。夢に現れた那須子は、新たな正義を作ればよいと言っていた。
(さりとて、いずこに新しい正義とやらを求めればよいのやら。妾には分からぬよ、高原)
 茫然自失のようになって、巫呪姫はしばし天を見上げていた。

○   ○   ○

「力仕事は、得意ですか」
 サワンは塔子の問いかけの意味を、瞬時に理解した。
 いち早く二人が走った先は、智己の足元に倒れていた、二人の人物。
 南光坊と、相馬小次郎。塔子たちが封印の前にたどり着いた時には、すでに斬られていたようだ。
 塔子たちは、智己と大介が打ち合うその脇をすり抜けて、ビルの影まで南光坊たちを運んでいった。
 双方とも、着衣を血で汚しており、深手である。まだ息はあるが、ろくな救急用具もない現状では、救命すら危うい。
「みなと先生連れてくればよかったねぇ」
 サワンが、ありあわせのもので傷をふさぎながらぼやく。
「仕方がありません。当初散開を指示したのは私ですから」
「……その声は、柚木塔子、か?」
 南光坊がうっすらと目を開けている。
「あまり喋らん方がいい。傷に障る」
「構わぬ……鬼子はともかく、身共はさして常人と変わらぬ身だ……長くないことくらいは、分かる……」
 塔子は歯噛みする。食えぬ男ではあるが、一時は共闘した間柄でもある。
「……鷲塚に、やられたのか」
「不覚であった。恐らくあの男は、御大の暗示にかかっていたのであろう……身共も小次郎も、少々疲れが溜まっていた故、致し方がない。あの男を責めないでやれ」
「承知した」
「それから、もう一点……唯一、心残りは御方のことだ」
「あの婦人……安倍川松子のことか」
「知っておったか……流石、調べるのは早い」
 南光坊が、薄く笑う。
「徳川の治世の折、御方は将軍家を霊的に守護する役を、そして身共はその指示を受け、江戸全体を守護する役を担っておった。御方から受けた教え、ご恩は計り知れぬ……どうか、救ってやってほしい。そのための力も、与えてしんぜよう」
「力、だと?」
 ごぼ、と、南光坊が血を吐き出す。
「おい、大丈夫か!?」
「……そなたは確か、かつて妖怪に呪印を施されたのであったな」
「ああ。お陰で大規模な術を行使することはできなくなってしまった。……この刻印を解くのは無理だぞ。仕留め損ねた妖怪に、その命を代償として仕掛けられた、死の呪いだ」
「それが解く方法がある、と言ったら、何とする」
 そう言いながら、南光坊は懐を探った。現れたその手には、短刀が一本。
「そんな、馬鹿な……まさか」
 鮮血が飛び散った。

○   ○   ○

 貯水タンクの裏から、八神麗が目を凝らしている
「見つけた。あれよ」
「ん、マジで」
 蓮葉朱陽が、麗の指した方角に向けて、目を細めてみる。二つほど隣のビルの屋上に、フェンスで身を隠すようにしながら、銃の狙いを定める男が一人。
「ねぇ、やがみん。空飛べる術とか、気合ぶっぱなす術とか持ってない? はー、って」
 朱陽が、手の平を狙撃手に押し付けるような仕草を見せる。
「ないわよ、残念だけど。弓の扱える子がいれば、少しは違うのだけれどねぇ」
「やっぱり、降りなくちゃ駄目、かあ。狙撃手にたどり着く前に、戦争が終わっちゃうよ……」
 非常階段に戻り、一路下に向けて駆け降りる。エレベーターの類は、残念ながらうんともすんともいわない。
「ああ言うのが何人くらいいるのかねぇ。その度に上り下りするのは、きついわ。ねーやがみん、神さんにお伺いを立てらんない?」
「そういうのもないわねぇ。一人ずつしらみ潰しにするしかないんじゃない? 他のメンバーが残りを倒してくれるのを、願うしかないわ」
「案外便利じゃないもんだねぇ、神降ろしって。ま、神さんが薄情なのは、いつものことか、と!」
 手すりを滑り降りるように、一階へとたどり着く。非常口のドアを蹴り開け……そこで二人の足が止まる。
「どちらに向かうつもりだい、お嬢さん方?」
 立ちはだかったブロンドの小さな影に、げんなりする。
「何さ、邪魔すんのかい。黙って見てりゃいいものを」
「そういうわけには、いかんのだよ」
 供馬尊が左手の指輪を輝かせる。
「あの男を信用するつもりはないが、本当に我が半身を解き放ってくれるというのなら、その成就までは付き合ってもよかろう。
 何、無益な殺生をするつもりはない。奴が封印を解いてくれるまで、遊んでくれればよいのだ」
 朱陽が冷や汗を流しながら、木刀を抜き放つ。
「ずいぶんとまあ、余裕じゃないか。悪いけど、こっちは遊ぶつもりは毛頭ありゃしないからね。ここであんたがぶっ倒れてくれりゃあ、色々と面倒ごともなくなるさ」
「束でかかって追い込めなかった連中が、たった二人で何をいきがるか。言っておくが、先のような囮は、今回は使わせないからな」
 供馬尊が左手をゆっくりと振りながら、二人に歩み寄る。



 供馬尊の背後では、やはりジョシュアが冷や汗を流している。
(止めさせなければ……でも、どうやって? 考えろ、考えろ……)

弥生(7)

「……ちっ」
 思わず口からそんな音が出てから、吹雪はしまったと思った。
 背後を追う春日部晴海が、声を上げる。
「なんで僕だと舌打ちが出るんです? 高槻さんとかの方がよかったですか」
「いやまあ、その」
「まあ、さておき……屋上に出たら、お任せしちゃっていいですか? 流石に射撃は専門外です」
「俺もやっちゃいませんよ、そんなものは」
 そう言いながら、階段を駆け上る。付近でいっとう高いビルの屋上を目指して彼らは非常階段を走り続けていたが、その高さが裏目に出た。
 やっとのことで行き着いた最上階にたどり着く頃には、ようやく階段をよじ登る程度に二人は疲れ果てていた。非常口のドアノブに手をかけたところで、更に追い打ちを受ける。
「……鍵かかってます」
「どいてください」
 迷いなく、晴海が前に進み出る。彼は自らの刀の鯉口に手をかけると、ドアの前で姿勢を低くした。
 吹雪が、まさか、と思う暇もない。
 きん、と、澄んだ音。同時にドアのロックが綺麗に寸断される。
「……すげぇ思い切ったことしますね」
「射撃以外のことは、僕の仕事ですよ」
 ドアノブを引いて外を見る、と。
「……どうも、見守るだけの仕事は、まだまだ先になりそうです」
「へ?」
 吹雪も晴海の背中から外を見た。
 しばし、絶望感に囚われた。
「やあ。結構時間がかかるもんだね」
 辰之進が、ビルのフェンスに悠然と腰かけている。
「……さっきまでは、逃げ回ってたくせに。ちったぁ大人しくしていてくれよ」
「いやぁ。手を出したら承知しないって、元宿主からプレッシャーが来ていたからね。愛されてるね」
 あんな奴に庇われたかねえっての、と、吹雪がぼやく。その目の前で辰之進は、よっこらせ、と、やたら年季じみた掛け声と共に、フェンスから飛び降りる。
「が、それもなくなった以上、手加減は抜きだ。吸血に頼らずとも、君らを圧倒する自信はあるぞ。どうか一つ、クライアントのお望みが叶うまで静かにしていてくれまいか」
「ご冗談を。ここまで大汗かいて登ってきた努力を、無駄にしろとおっしゃりたい……」
 吹雪が剣を抜こうとして、晴海に手で制される。
「言ったでしょう。君は撃ち方に集中すること」
「え、いや、ちょっと。幾ら何でも、一人であれを相手するのはきついでしょう」
 晴海が刀を抜きながら、薄く笑う。
「いいんですよ。ロックウェルさんの奮闘を見ていたら、僕も後輩にいいとこ見せたくなりました。それに」
 抜刀して辰之進を見据える。
「こんな馬鹿な状況、僕はできれば、一刻も早く終わらせたいのですよ。それができるのなら、どんな障害でも斬り捨てるのをいとわない」
 辰之進が鼻を鳴らす。その手が、足が、全身が次々に黒い蝙蝠へと変じて、飛び立ち始める。
「威勢がいいのは、結構。だが、その元気を容赦なく手折ることになるのは、少々残念だ。言っておくが、一度や二度斬ったところで、この身は簡単には死なんよ?」
 蝙蝠の群れが、空を薄暗く覆い隠していく。吹雪はその様子に、今度こそ舌打ちを隠せなかった。
「一発や二発撃ったところでも、死ななさそうだよなあ……」

○   ○   ○

 汝鳥市内に入った時に、通った雑居ビルが見えてくる。
 市の周辺は、現在もまだ警察が封鎖している。妖怪バスターたちは、この建物の地下にある抜け穴を通って、この汝鳥市内へと踏み込んでいる。
 春菜はそのビルの前に立ち止まると、思案するようにそれを見上げた。
「どうかしましたか?」
 香奈が春菜を不思議そうに見る。
「……葦矢氏の一味が掘ったんですよね、ここの抜け道は」
「確かに、その通りですが……」
 そこまで口にした香奈の顔が、次第に不安で曇り始める。
「葦矢氏は汝鳥の市内に私たちを誘いこむために、ここに大穴を開けた。それが逆に汝鳥の外へ出ることを許すのかしら?」
「……言われてみれば。まずいですね、京汝鳥の応援勢力の方々にも、ここの場所を教えてしまいました」
 春菜と香奈が、顔を見合わせる。
「……トラブルに巻き込まれているとしたら」
「……確認しないと行けませんわ」
 一つ咳払い。周囲に気を配りながら、正面フロアに続く扉を押し開く。
 最初にビルの内部を探索した時と同様、人の気配は感じられない。
 しかし。
「……います。地下に。邪な気配が……無数」
 春菜は香奈の報告に息を飲む。
「待ち伏せされてるわ。いったん引きましょう」
 再び扉に手をかけた、刹那である。
 ドアを破り、テラスを割り、一斉に地蜘蛛がロビーの中へ雪崩込んできた。
「……!」
 すぐさま香奈が印を切り、二人の周囲に結界を張り巡らせる。殺到してきた地蜘蛛のうち、数体が弾き飛ばされる。
「シャーッ!」
 しかし地蜘蛛たちはなりふりかまわず、不可視の壁に向けて体当たりを繰り返す。手足が折れ、体液が飛び散るのもお構いなしに、である。
 香奈が結界に手を振り上げながら、脂汗を流し始める。
「これは……長く持たないかも知れません。隙を見て、高槻様だけでも」
「馬鹿を言わないで!」
 結界の内側から、飛びかかってきた地蜘蛛に対して当て身を入れる。結界にしがみついていた連中を幾らかふっ飛ばすが、それもまた焼け石に水。
「このままでは結界が破られます。どうか、退避を!」
「この数を相手に、逃げる場所なんて……」
 地蜘蛛の一体が結界を破り、その隙間から手を香奈に向けて差し込もうとする。
 どしゃ、と黒いものが、二人の眼前で弾けた。

○   ○   ○

 ……分からない。
 黒服の男たちを、斬った。何人も、何人も。
 封印にたどり着いてからも、追手は絶え間なく現れて、僕に襲い掛かってきた。
 そして今は、こいつだ。重々しいバールのようなものを軽々と振り回す、黒服。先ほど倒した二人も強敵だったけれど、こいつはなかなか動きが鋭い。一つ間違えれば、刀を持っていかれそうになる。
 すでに数十合をこの刀で受け流し、刃は潰れてあっという間になまくらになってしまった。こんな刀で、斬れるだろうか。
 斬らねばならない。
 斬らねばならない。
 かかってくる全てを、斬らねばならない。
 ただし真琴は、斬ってはならない。



「無駄に腕ぇ上げやがって、イライラするぜ!」
 大介が絶叫を上げながら、鉄パイプを振り下ろす。十数度の打撃を与えてなお、その勢いは衰えない。
 しかし、智己もまた必死といえる形相でそれを受け止め、流し続けていた。度々体制を崩しそうになりながらも、辛うじて持ちこたえている。
 真琴はビルの物影に隠れながら、その様子を食い入るように眺めていた。
(……もう、なんでこんな時ばっかり、無駄に根性があるのかしら!)
 とっくに体力の限界なんて、超えているはずなのに。智己は、大介に負けじとばかりの鬼気迫る形相で、応戦を続けている。まるで何かが乗り移ったかのような戦い振りだ。
(長期戦は……まずい。朝霞さんに不利になる!)
 大介の失速は、所属の異なる真琴でも何度かお目にかかっている。短い時間の間に風車のような戦い振りを見せたかと思うと、次の瞬間には電源プラグを抜かれた機械のように、戦闘体勢のまま倒れ伏す。その姿は、例えるなら火のついたロケット花火。
(朝霞さんが倒れたら、私たちにあとがなくなるわ)
 今も葦矢の配下は、彼らを銃で狙っているはずだ。万が一、大介のガス欠が先に訪れれば、葦矢は大介を人質に真琴らを恫喝するだろう。
(何とかしなくては……でも、どうやって時間を稼げば……)
「鴉取真琴だな?」
 何者かの声と気配が、真琴の背後に近づいてくる。見なくても分かる展開には、少々頭に血が昇らざるを得ない。
 ああ、そうですよね。散開するなら自然とそうなりますよね。
 数人の黒服たちが、真琴を取り囲むように近づいてくる。
 逃げ回るのが正しい選択なのかもしれない。しかし、自分は目の前の状況を見捨ててこの場を離れられるほど、薄情にもなれない。
 ああ、甘ちゃんめ。どこまでも甘ちゃんめ。ここまで着いてきた時点で、こうなる覚悟も決めてきたくせに。
「失礼、我々は──」
 鞘ずれの音が、微かに聞こえた。
 男たちの先頭で、真琴の肩に手を伸ばそうとしていた者の動きが、止まる。
「──え?」
 首筋に微かに触れる、冷たい感触。
 それが真琴の手から伸びた刀であると気がついた瞬間、男の全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出した。
「死ねますよ?」
 静かに、しかしはっきりと真琴の口から出た言葉に、残る男たちまでもが怖じ気づく。
 真琴は備前長船を握る手に力を込め、精一杯の虚勢を口からふり絞った。
「このまま刀を引くだけで、剄動脈を断てますよ。大量の血を噴き出して、なす術もなく死ねますよ。試してみますか?」
「そ、そんなこと、できるはずが」
 首筋に、白刃が食い込んだ。口を「あ」の形に広げたまま、表情筋まで動きを止める。
「あなた方こそ。死ぬ覚悟はありますか? こんな場所ですもの。一人や二人殺されたところで、誰も不思議に思わないわ。
 私、ありますよ、死ぬ覚悟。それと一緒に、殺す覚悟だって」
 少しだけ、剣を前に押し出す。瞬間、首筋にしびれるような痛みが走る。
「や、やめ」
「はっ!」
 凛とした声と同時に、男の絶叫がその場に響き渡る。
「ひっぎゃあああああ、痛い、痛い、痛い!」
「お、落ち着け!」
 男は首筋を押さえて、転げ回る。慌てて周囲にいたほかの男たちが、彼を取り押さえようとする。
 真琴は修羅場と化したその場からきびすを返し、悠然と距離を取り始めた。鞘に戻される備前長船の刃は、抜いた時と同じく白銀の輝きを保っていた。
(……よかった。まだ、人殺しじゃない)
 刀を引く瞬間、手の力を抜いて男の首筋皮一枚だけを斬った。うっかり本当にその場を血の海にしなくて済んだことに、内心安堵する。
 他の黒服が、出血がほとんどないことに気がつく頃には、真琴は封印の前まで歩み終えていた。目の前では大介と智己がまだ死闘を繰り広げている。
 ……さて。どうやって時間を稼ごうか?

弥生(8)

 ばん、ばん、ばん、と、小さな爆発音が立て続けに、界隈に響き渡る。
「そうら、逃げ回っているばかりでは私は倒せんぞ!」
 供馬尊の手の中に、指輪の輝きと同じ青白い色の、光の玉が生み出される。彼はそれを何個も作り出すと、立て続けに市街へ向けて投げ放った。それが建物や道路に当たると爆発して、コンクリートが、アスファルトが、いとも簡単に砕け散る。
 ぼろぼろになった塀の影から、朱陽と麗が転がり出る。
「冗談じゃない、殺す気満々じゃないか!」
「本気になったら半端ないわね。邪神扱いもされるわ……」
 香奈による妖力封じが、どれほど供馬尊に対して有効だったか、よく分かる。最初の戦いの時にあの力を振り回されていたら、間違いなく死人が出た。
「このままじゃジリ貧だねぇ。せめて接近戦にできれば……」
「近づく方法は、ないでもないわ」
 朱陽が驚いて、麗を見る。
「私が囮になって供馬尊の注意を引き付けるわ。あなたはその間に近づいて、仕止めて」
「囮ってねぇ、それはこの前もやった手さ。同じ手が何度も通用するとは思えんよ。おまけに前回の囮役は二人、今回は一人さ」
「問題ないわ」
 朱陽が目を丸くする。その前で、麗は自身ありげに笑っている。
「一人で三人分の働きができれば、十分でしょう?」



「いい加減にしろ、トウカ君! 君のやってることはテロ行為にも等しいぞ!」
「君もほどほどしつこいな。無駄だと言ったろう?」
 ジョシュアは供馬尊の言葉などお構いなしに、叫び続けていた。立て続けに響く爆音に目を回しそうになりながら。
「あんたとは話しちゃいない。私はトウカ君を人殺しにする前に、彼女の目を覚まさせなければならないんだ」
「安心しろ、狙いは少しずつ外している。自分から弾に突っ込む間抜けでもなければ死ぬことはあるまいよ」
「…………おい!」
 叫び声。ビルの影から、朱陽と麗が転がり出てくる。
「逃げ回るのも性に合わん。そろそろ決着をつけさせてもらうよ?」
「決着、ねえ。また囮でも使って、友人に大怪我を負わせるつもりか?」
「心配しなさんな。怪我すんのは、あんただけだ」
「ほう、それはそれは!」
 供馬尊が、再び弾丸を放り投げる。それが朱陽と麗の足元で炸裂して、土煙を上げる。
 それを飛び越えて走ってくるのは、朱陽のみ。
 麗の姿は……見えない。
「何!?」
 目くらましを使ったようには、とても見えない。供馬尊は全神経を麗の探索に集中させる。
 その姿は。
 すでに供馬尊の正面にいた。
「!!」
 手の平に力場を作り、勢いと共に振り出された太刀を受け止める。びりびりと、手が震える。
「馬鹿な。人間の出せる速さではないぞ!?」
「トウカ君、早く目を覚まさないと殺されるぞ!」
「ええい、うるさい!」
 だん、と。麗が反対側の壁を蹴り、跳弾よろしく突っ込んでくる。
 まさに、神速。降神と、麗本来の速駆けの技とを組み合わせた、最速の足である。そしてそこから繰り出される太刀は、速度の二乗に比例して威力を増し、精妙な太刀筋との合わせ技によって鋼をも両断する。
(囮、だと!? あれがそんな生易しいものか!)
 最初から仕止めにかかる気満々の、奥の手だ。しかも背後からは朱陽も、かの霊力あらたかな木刀を手に、走り寄って来ている。
 一切の手抜きも、負かりならない。
 全ての抵抗を無視するように、麗が地を這う突進を見せる。第二撃の方向、角度。供馬尊は高速電子計算機もかくやの早さでそれを予測した。
 供馬尊の顔のすぐ脇を、太刀が通り過ぎる。
 あとに続くのは、無防備に太刀を突き出した麗の体。
 供馬尊は、その腹に、とん、と。
 拳を、「合わせ」た。
 バランスを崩してそのまま宙を舞う麗を捨て置き、体を百八十度裏返す。
 眼前に、木刀を振り上げた朱陽の姿。
(取った……!)
 振り下された木刀を、素手で掴み取る。
 持ち主の手を離れ、木刀が弾き飛ばされる。あとは空いた片手で、残る朱陽を叩き伏せるのみ。拳を、振り下す。

 顔を上げた朱陽の手には、今しがたはたき落とした木刀より、一回り短い小刀があった。

 直撃。

 朱陽が打ち出した渾身の突きが、供馬尊の喉笛を綺麗に捕らえた。
「げぼっ!?」
 蛙のできそこないのような声を漏らして、今度は供馬尊が吹き飛んだ。
 朱陽は、スローモーションで飛んでいく供馬尊の姿を視界に捉える。
(……二本とも役に立ったよ、爺さん)



 背中から地面に激突する。
 ジョシュアは供馬尊ともども宙を舞いながら、今度こそ間違えようのない死を直感した。
 京都からここまでやってくるまでの間に、背中から地面に叩きつけられそうになること数回。今回は供馬尊を支える者もなく、また彼自身も受け身を取れるようには思えない。
 仕方がない。諦観の思いが胸中を過ぎる。
 幾度にも及ぶ同士討ちを、結局自分の手で止めることは適わなかった。これはそんな無力な自分に対する、天の下した罰に違いない。
 ゆっくりと、ゆっくりと、地面が近づいてくる。距離は三メートル。
 このまま激突し、供馬尊によって押しつぶされる。確実に即死であろう。
 残り二メートル。
 ああ、でも、願わくば。
 残り一メートル。
 一つの指輪が、供馬尊の手から離れることを確認してから、死にたかった。
 残り一・五メートル……
 ……あれ?
 自分の体が、拘束されているリュックごと宙高く放り投げられたと知るのは、直後のことだった。回転する視界を、供馬尊の姿が横切っていく。
 ……まさか。彼が、助けてくれただって?
 万有引力に基づき、落下が再開される。そのまま、今度こそ地面に墜落して……
 柔らかい感触に受け止められた。それはざりざりと路上をジョシュアもろとも滑り、摩擦によって減速していく。
 茫然とするジョシュアの身を、誰かの両手が優しく包み込む。
「大丈夫かしら、ジョシュアさんっ!?」
「……へっ?」
 飽きるほど聞き馴染んだ声に、首を動かすと。
 供馬尊……ではなく、トウカ・イーオス・ラインバーグが、青ざめた顔をしてジョシュアを見下ろしている。
「……まさか、今ので?」
 トウカは、ジョシュアの問いかけに答える代わりに、花が開いたかのように破顔する。
「ああ、よかったですわ、よかったですわぁ。ジョシュアさんが死んでしまったら、私、どうしようかと思いましたわ」
「ちょっと、苦しい、やめっ」
 トウカは路上に転がったまま、ジョシュアを抱きしめた。路面に激突した上、服は慣性で引きずられてぼろぼろにもかかわらず。
 十メートルほど向こうで、朱陽があっけに取られている。
「も、戻ったのかい? なんで、いきなり」
 そんな朱陽などお構いなしで、トウカはジョシュアをハグし続けていた。
「ようやくこの前、捕まえたばっかりですのに……ばっ……また居なくなったら悲しいですもの……馬鹿な……」
 言葉の端々に、違和感が生じる。誰か別の人間が、トウカの口を借りて、喋っているかのような。
「魔神か? まだトウカ君に住みついているのか?」
「なぜ、からだを取り返せる……ああ、もういいですわ。そろそろ、出ていってもらえません?」
 軽く肋骨の辺りをトウカが叩く、と。
 どさり、と、その背後で音がした。
「ぐ……う……」
 聞き慣れない、くぐもった低い声。朱陽が恐る恐る、近づいてみる。
 恐ろしいものが、路面に這いつくばっていた。片腕のない、人間の上半身のようなもの。長い白髪の狭間から覗く全身は土のように黒く、干からびたようにやせこけている。
 恐らくこれが、供馬尊の本体、その半身。
「今の今まで、完全に掌握できていたはずだ……それがなぜ、今になって……」
「ちょっと、何ですの。ジョシュアさんは触らせてあげませんわよ?」
 朱陽が、ジョシュアを供馬尊から遠ざけようとしているトウカを、疲れた目で眺めている。
「……ひょっとして。ジョシュアが死にそうになった拍子に、出てきちまったのかい……?」
「んな、阿呆な!」
 ジョシュアがすっ頓狂な叫び声を上げながら、朱陽を見る。
「そんな簡単な理由で……今までの呼び掛けはいったいなんだったんだ……」
「必死でしたわよねえ。いつでもあんな一生懸命な姿を見せていただいても、よろしいですのに」

 沈黙。

「あら? 皆さん、どうかされましたか?」
 ジョシュアが、朱陽が、彫像のように固まったまま、トウカを見ている。
「……あんた……意識あったんかい……」
「え? ええと。体は勝手に動くものですから、動かされるままそのまま流されてしまって。いやあ、口寄せは経験ありますけど、体寄せは初めての経験で、新鮮でしたわぁ」
「何が新鮮だ、馬鹿! お前が寝ぼけてたせいで鋼音も、ロックウェル先輩も……だあああ、やがみんのこと忘れてた! 畜生、無事か、無事なのか!」
 十メートルほど向こうで倒れた麗に向けて走り出そうとしたところで、足元から声が聞こえた。
「呑気な、ものだ……」
 朱陽が短刀を構えて、供馬尊を見る。
「……はったりだ。動く気力もない。指輪がなければ、回復もままならぬ」
 トウカが自分の手に収まった指輪を見る。
「私の、負けだ」

弥生(9)

 近づいてきた真琴の姿を認め、大介も智己も動きを止める。
「……イライラするぜ」
「……真琴!?」
 自分のことだけは分かるらしい。なるほど。
「おい、何をのこのこと、しゃしゃり出て来やがった」
 真琴は伸ばされた大介の腕を、そっと掴む。
「私が話をしてみます。少し休んでいてもらえませんか」
「……イライラするぜ」
 大介は、真琴と入れ替わるように後ろへと下がる、と。
 そこで、前のめりに倒れた。やはり限界だったのだろう。
(……さて)
 真琴は智己へと、ゆっくり近づいていく。対する彼は、ただ唖然とした表情で、その様子を見ている。
「真琴……なんで、なんで君が、『あいつら』なんかと、一緒に……?」
 「あいつら」。めまいがしそうになった。強く深くため息を吐き出す。
「あのねぇ、智己さ」
「あー、これは洗脳されちゃってるわねー」
 智己の後ろから聞こえてきた女性の声に、水を挿される。
「ここに来る前に、お師匠様に捕まってしまったのかもしれないなあ」
 あのスピーカーを担いだ、萬斎の配下らしき女性だった。それを聞いた智己はというと、とてもとても悲しそうな目をしながら、こう言ったのである。
「……そうなのか、真琴!?」
 …………
 …………
 ………………
 何を智己さんに吹き込んだ、あの毒婦!
「智己さん、目を覚ましなさい! あなたはあの女に暗示をかけられてるだけ!」
「君こそ目を覚ませ! 君はあの葦矢って男に操られてるだけなんだ!」
 ……駄目だ、これは。
 自分が頑なに、暗示にかけられて「いない」と思い込んでいる。いや、あるいは。
 「暗示にはかからない」という暗示にかかってしまっているのだ。
「困ったわねえ。でも妹さんじゃ斬れないわよねえ。どうすればいいのかしら」
 黙れよ、醜女。
 しかし智己は、その言葉を真に受けて、途方にくれたように自らの手にした刀を、だらりとぶら下げる。
「駄目だ、斬れない……真琴を、斬れるわけがない……」
 なるほど。
 このまま智己は戦意を喪失。正気を取り戻すべく真琴に大人しく斬られる。
 それが、萬斎の準備したシナリオなのだ。恐らくそれを鍵として、供馬尊の封印は開かれる。
 そんな馬鹿なことがあるか。では、真琴が智己を斬ることを拒否したら?
 ……背後に控えた萬斎の配下たちか。それとも周囲に隠れている狙撃手たちか。そのいずれかが、真琴に智己を斬らせるように仕向けるのだろう。
 それすらも拒否しきるためには、どうすればよいのか? 周囲の連中を妖怪バスターたちが駆逐してくれることに期待するとしても、時間がかかる。
 さて、どうするか。
 考えろ。智己と、真琴と、そして、備前長船。この三つが揃い、確固たる手順を踏むことで封印は解放される。
 逆を言えば、どれか一つでも満たされなければ、封印は解けない。
 つまり。未だ、優位は、我らにあり。
「……智己さん」
 抜き身にした備前長船を、正眼に構える。
 脱力して無防備な智己に近づき、剣をゆっくりと振り上げる。
「そろそろ、目を覚ましなさい」

○   ○   ○

 その日は、汝鳥周辺を包囲していた警察官たちにとって、最大の厄日となった。
 非番や通常勤務を返上しての市街封鎖は、ただでなくとも彼らに多大な負担を強いていた。それに加えて、この日は想像を絶する恐ろしいものに出くわす羽目になってしまった。
 それは警官たちが、襲い来る暴徒と化した汝鳥市民たちと小競り合いを続けていた時のこと。
 背後から聞こえてきた、耳慣れないエンジン音が、彼らの動きを止める。
「何だ……?」
「おいおい、ここは立ち入り禁止……」
 振り向いて、接近してきたものを見て、目をひん剥いた。
 ハーレーなどよりも一回り以上大きい、車種の知れない超大型バイクと。
 それにまたがる、身の丈二メートルはあろう、鎧甲冑のようなものを身に着けた……ように見える……超大型の人間。
 それが、車道のど真ん中を。時速百キロはあろうかというスピードで。
 法定車線。法定速度。全てをふっ飛ばして、近づいてきていた。
「……ちょっ」
「お、おい、止ま……!」
 制止も、ホイッスルも、全ては手遅れ。バイクは彼らの目の前で、顎を開くように前輪を持ち上げた。
 目指す先は、路上の傍らに静止していた、一台のパトカー。
 警官たちが、あんぐりと口を開けて。
 その頭上を、パトカーの後部を踏み台にした、ド級のバイクが飛び越していく。
 そして、着地。
 警官たちの怒号と、笛の音を背に、バイクは汝鳥市内へと消えていった。
 この件により警察車両が一台、後部が押しつぶされて半壊。またその内部で無線連絡を取ろうとしていた警官が一人、割れたガラスで顔を切るなどして軽傷を負った。
 その場に居合わせた警官たちは口を揃えて、「まるで特撮アクションのワンシーンのようだった」と話している。

○   ○   ○

 きぃ。
 きぃきぃ。
 きぃきぃ、きぃきぃ、きぃきぃきぃ。
 蝙蝠の大群が天空を覆い、その鳴き声がドームのように反響する。それはまさに悪夢であった。
 束をなして飛来するそれを、晴海が片っ端から斬り捨てる。
「冬真君、君は狙撃手を探して」
「さっきからやってますよっ!」
 体にまとわりついてくる蝙蝠たちを、必死に振り払う。どうにかその隙間からビルの向こう側を覗こうとするものの、数十、数百の獰猛なる牙と爪は、外の世界を見ようとする自由すらも、吹雪から奪い去ろうとしている。
 いっそのこと、このふざけた「弓」で、吸血鬼を狙撃できれば、どんなに楽だろうか。
 ああ。漫画とかだとよくある話だ。分裂したもののどこかに本体があって、それを叩けば全部一掃できるっていう。
 吹雪はまとわりつく蝙蝠を払いのけながら、懐からもう一つの武器を取り出す。此花咲哉から預かった、全ての本質を映し出す雲外鏡。
 その鏡に蝙蝠たちを映し出し……愕然とする。
 この蝙蝠の一匹一匹が、浦戸辰之進の分身。
 つまり彼を殺すためには、その全てを殺さねばならない、ということ。
(……無理じゃね?)
 こすもるがーでは、とても弾数が足りない。一体一体斬っていても、到底間に合わない。
「先輩、これは分が悪い! 一度退却……!」
 蝙蝠の一体が吹雪の手を掠め、雲外鏡を叩き落とす。乾いた金属音を立てて、鏡がコンクリートブロックの上に落ちる。
(……くそったれ!)
 苦しい思いをして、自分自身とも戦って、ようやく妖怪に対抗する力を手に入れたというのに。それが一体の妖怪すら倒せないなんて。
 自分らは無力なのか。いや、これは相性が悪い。毒ガスとか、大量の水とか、多くの敵を一度に殺せる武器がいる。
 それか、例えば、電撃とか……
 ……まさかな。
 あの人が。大怪我を負ったあの人が、こんなところにまで、来れるはずがない。
 それがまた、なんで、
 バイクの音が近づいてくる幻聴まで、聞こえてくるのやら。
 …………
 ここが何階だと思ってんだ、あの馬鹿!

 エンジン音。

 ロケットが飛んできた、ように見えた。
 バイクの腹であると気がついたのが、そのすぐあと。
 なんてこった。馬鹿げている。ここまで行ってしまうと、もはや妬むレベルを超えている。
 万有引力も何もかもを無視して。
 バイクに乗ったまま。
 地上から、屋上まで、垂直登攀してくるなんて。
「ごおおおおおおお!」
 輝充郎が、怪獣のようなおたけびを上げて、バイクから飛び出しそのまま屋上へと着地する。全身に電気火花が散っているのが、よく見える。
「伏せろーっ!」
 晴海が、吹雪が、剣を投げ捨てて地面に這いつくばるのと、輝充郎の全身が発光を始めるのが、ほぼ同時。

 大爆発。

 轟音と閃光、そして凶悪な電荷が体のすぐ上を通り過ぎていく。直撃を受ければ最悪消し炭すら残らないほど焼きつくされ、よくても感電で病院行き。
 もちろん、その牙を剥く相手が人間よりも小さいものとなれば、その危険度は飛躍的に増加する。
 雷撃が収まったのを見計らって顔を上げると……凄惨な光景が広がっていた。
 輝充郎を中心とした、焼け野原である。かつて蝙蝠だったものの残骸が所々でくすぶり、または炎を上げている。
 吹雪は慌てて、晴海に声をかける。
「先輩、残った奴を始末して! 全部殺さないと、息の根止められない!」
「わ、分かった!」
 すぐさま刀を拾い上げると、生き残った蝙蝠の処理に取り掛かった。先般とはうって変わって逃げ回る蝙蝠たちを、念入りに斬り捨てていく。
 ただ一匹、残った蝙蝠が晴海の剣を逃れ、高く上空に飛び上がった。
(よし。一匹なら、何とか……)
 吹雪はこすもるがーを構え、ビルから逃げようとする蝙蝠に狙いを定める。

 ぴにょーん。

 相変わらずの間抜けな音と共に飛んだ不可視の弾丸が、蝙蝠の羽を消し飛ばした。ぎゃっ、と悲鳴を上げて、ビルの谷間に消えていく。
「やべえ、狙いが逸れた……」
「うおおおおおおお!」
 輝充郎の絶叫がびりびりと周囲を揺さぶった。
「足りねえ! 暴れ足りねえぞ! 馬神ブル・ファントムよ、次の敵の前に俺を導いてくれ!」
 すう、と、先ほどのバイクが現れて、輝充郎の前に止まる。
「御意のままに。さあお乗りあそばせ」
「よっしゃあああ、行くぜええええええ!」
 と、バイクにまたがった輝充郎は、そのまま走り出し、屋上を飛び出した。
「!!」
 唖然と見送る晴海と吹雪を背後にして、ビルの壁を道路代わりに、輝充郎はビルの下へと消えていった。
「……どっちが操縦してるんだか、分からんな、あれ……」
「まあ、元気そうで何よりです。それより冬真君、あとは任せていいですよね?」
「……ああ、そうだった」
 吹雪の仕事は、ここからが本番である。こすもるがーの装弾数は、残り五発。これで、できる限り多くの狙撃手を仕止めなければならない。
 ふと、下界を見ると、とあるビルの屋上に唖然とした顔でこちらを見上げている、黒服の男が目に入る。その傍らには、ライフルが一丁。
「早速、見つけた……よし、そのまま慌てていてくれよ」
 こすもるがーの狙いを、ライフルに向ける。

弥生(10)

「……え?」
 智己は真琴のその姿を見て、凍りつく。
「何やってるんだ……真琴……」
「見ての通り、よ。智己さん、言っていなかったかしら? この剣は、自決用だって」
 真琴が言う。その首筋には、自ら刃先を押し付けた備前長船の白刃がきらめいている。
「ば、馬鹿なことはやめるんだ。君は……」
「近づかないで」
 真琴が、手を伸ばした智己に対して気炎を吐く。
「鴉取家の当主を継ぐべき智己さんが、敵方に操られるとはなんたる失態。そんな迂闊な方を兄に持ってしまった私も、恥ずかしくて生きては行けません。かくなる上はこの場で潔く自刃し、ご先祖様に侘びを入れて参りますわ」
 芝居がかった台詞を次々と並べてみる。完璧に勢い任せだ。
 しかし、智己の動揺を誘うには十分すぎた。
「やめてくれ……そんなことを、誰が望む? いい加減に正気に戻って」
「正気に戻るのは、智己さんです!」
 兄妹は更に睨み合う。

○   ○   ○

 ウォレスは額の汗を拭いながら、周囲の光景を眺める。
「……いやはや。まさしく実力開眼デスね」
 視線の先には、印を結んだままじんわりと汗を流す瑠璃の姿。そしてその周囲には、地蜘蛛たちの影。
 いや、正確には。地蜘蛛たちの影の形をした、その灰の塊。
 数十秒ほどの間、瑠璃と恋歌を地蜘蛛から守ること。ウォレスの仕事はそれだけで十分だった。あとの数秒を以って、瑠璃が周囲一帯に放った浄術が、全てを終わらせた。地蜘蛛のみを蒸発させて、あとは通常と変わらぬであろう、ビル街の裏路地が残るのみ。
 ふう、と、瑠璃が息を吐く。
「……急ぎましょう、先生。そう何回も出せる規模の術じゃないですし」
「デショウね。恋花さンが見つかるまで、連中がちょっかいかけて来なけりゃいいんデスが」
「あら、もう少し探すのに時間をかけた方がよかったかしら?」
 上空からの声。その声に、恋歌の表情がぱあっと明るくなる。
「八歳様!」
 とん、と、軽やかに、恋花が地上に降り立った。恋歌がその前に駆け寄る。
「ひどく疲れておいでですじゃ。どれだけの術を行使したですじゃか?」
「まあ、色々とあってねぇ。では、戻るわよ、レン」
「はい、ですじゃ!」
 恋歌は恋花の背中に跳び乗る、と。ぽん、と、ほのかな煙を上げて尻尾の一つへと変じる。
「よぉし、復活」
 恋花はその全身から、輝かしいほどのオーラを放ち始める。
(なるほど)
 ウォレスは思う。確かにこれが、七月宮と呼ばれる稲荷の完全体なのだ。荒々しい妖怪とまったく変わりがなかった以前とは、まったく様子が異なる。
 その恋花が、手をわきわきと握りながらウォレスらを見る。
「……さて。晴れて力も戻ったことだし、始めましょうか? それとも、ほかの連中が揃ってからの方がよい?」
 ウォレスは瑠璃を見る。彼女は一つ、思案する仕草を見せる、と。
「いいえ。その必要はないと思います」
「あら、どうして?」
「だって……私の力じゃ、敵うはずがありませんもの」
 ウォレスの顎がかくん、と落ちた。
「どゆことデスか? さっきのみたいな術を使えば、七月さンにも対抗できるのではないデスか? そのために修業してきたのデショう?」
「確かにそうなんですけど……でも実践して見て、分かっちゃったんですよね。この浄術は、邪なものを赦うだけのもの。七月宮様を鎮めることはできませんよ」
「いやいや、そうでもないわよ?」
 恋花がなぜか口を挟んでくる。
「だって今の私、祟り神だし」
「その祟り神が、わざわざご自分の宝具を誰かに託したりしますかね? しかも、ご自分を殺すために」
 ぴにょーん、という間抜けな音が、遠くから聞こえてくる。
「……何にしても、けじめは必要よ。あんたたちは神を敬うことを忘れ、結果としてこの『私』を呼び覚ました。その責任は取ってもらわないとねぇ」
「責任というなら、一番お側にいながらその存在に気づけなかった私が最も重いと思います。だから」
 ごほん、と、一つ咳払い。
「この私一人の身を以って、怒りをお鎮めくださいませんか、七月宮様。
 かつてレンちゃんが、その身を以って、そうしたように」
 ウォレスも、恋花も、目を丸くして瑠璃を見る。
 つまりは、人柱である。自ら生贄となる道を迷いなく示したことより、その提案が瑠璃からなされたことに対する驚きが、一人と一柱の心中で優先した。
「……あんた、自分の言ってること分かってる? それをやったら、私がダイコクに怒られるの、分かって言ってるでしょう?」
「いや、そこまで考えてなかったですけど……それがけじめになるのであれば、ほかのみんなに迷惑がかからないのであれば、よいかな、って。こんなこと言うと、きっと春菜ちゃんは怒るだろうけれども」
 恋花は瑠璃を見る。
 更にその様子を、ウォレスが見る。
 動揺と驚きと呆れと困惑が入り混じった、恋花の目を見る。
「……っ、保留!」
 それだけ言い残すと、恋花は瑠璃の脇を、通り過ぎる。
「どちらへ?」
「まだこの街には、地蜘蛛の連中が設けた拠点があるわ。今からそこを潰し……その、八つ当たりに」
「では、手伝います」
 瑠璃の言葉には、淀みがない。
「好きになさい……あと、それから」
 恋花が、瑠璃を一瞥する。
「一つ認識違いがあるわね。レンはねえ、自分の好きで人柱になったわけじゃないわ。当時の連中が、私を鎮めるためだの何だの理由をつけて、この子を押し付けただけよ」

弥生(11)

 モニター上に、向かい合う真琴と智己が映し出されている。
 萬斎はそれを眺めながら、しきりに首をひねっていた。
「なるほど、なるほど。自ら命を立つと脅せば、兄上も我々も手出しができないと踏んだわけですか。では……」
 萬斎は無線機のスイッチを入れる。
「私です。今どちらに? ……よろしい。後方からそうっと近寄って、ですな。鴉取さんを拘束するのです。ああ、鷲塚君に君たちの姿は、目に入らんはずですから大丈夫」
 更に、カメラを後方に下げるよう指示を入れる。真琴、智己の姿が小さくなり、その後ろから足音を殺して近づく黒服たちの姿が見える。
(それでよしよし……幾ら死のうたって、一思いには死ねません……捕まえてしまえばこちらのもの、両者とも身動き取れぬようにして……鷲塚君を殺させればよい……!)
 黒服たちが、徐々に真琴へと近づいていく。対する真琴に、気がつく様子はない。
 あと数十センチで、黒服の手が真琴に届く。
 異変が生じたのは、まさにその時だった。
 手を伸ばした黒服が、唐突に、何かに弾き飛ばされるような仕草を見せる。
「ん……?」
 一人だけではない。動揺した黒服が次々に真琴に走り寄ろうとするが、それらが全て、見えない壁によって弾き飛ばされる
「な、何と……!」
 萬斎は食い入るようにモニターを見やる。
「これは、相当練りこまれた陣術ですよ……! いったい、誰がいつの間にこんな仕掛けを!?」

○   ○   ○

「そこまでだ」
 動揺する黒服たちの耳に、少女の声が届く。
 塔子が、サワンを伴い、悠然と彼らの前に立ちはだかる。
「壁の念法・八方守護の陣。こいつを使うのは久しぶりだが……貴様らごときに破られはせんぞ」
 黒服たちは顔を見合わせ、塔子につかみかからんと身構える。
「先輩!」
「心得た」
 サワンが挑みかかる黒服の手を取り、投げ飛ばす。塔子はサワンがそのあとも次々に黒服たちを叩き伏せていく様子を見守りながら、陣に念を集中させる。
(もってくれよ……一刻、いや半刻でいい……南光坊を犬死ににはさせるものか)

○   ○   ○

 数分前。
「南光坊!」
 返り血で自らが汚れるのも顧みず、塔子は南光坊から短刀を奪おうとする。
「ぐ……はっ……」
 南光坊は自らの胸板を深々と貫いていた。再び、激しい吐血。
「なんて、ことを……!」
「よい……のだ……」
 南光坊は短刀を引き抜く。傷口からだくだくと、真っ赤な血が溢れ出す。
「どのみち……長くない……しからば、有効に用いるのが……筋というもの……」
 ちゃりん、と、短刀が地面に当たって音を立てる。
 南光坊はおもむろに自らの傷口に手をやる。血まみれになった手を、今度は塔子の胸に伸ばした。
 とん、するするするする、する。
「…………!?」
 指で何かをなぞったように見えた。何か文字を描いたように思える。あの軌跡は、確か……
 がちゃん。
 頭の中で何かが外れる音。同時に、全身に異質な力が満ち始めるのが感じられる。
「……こ、これは……!」
「死命を代償にかけられた呪いは……死命を代償とする『祝い』によって帳消しとなる」
 塔子が驚いて、南光坊を見る。その身が腕の先、足の先からぼろぼろと崩れ始めている。
「一時的な刻印の無効化だが……この度の戦いの合間であれば……十分、であろう……ふふふ……」
「南光坊!」
「柚木よ……御大に……一泡、吹かせて、やれい……」
 南光坊の姿が、そのまま崩れ落ちる。崩壊を止める手立ては、塔子にはなかった。
 そのまま南光坊がぼろぼろの土くれの山になり果てるまで、塔子はその様を見下ろしていた。
「……勝手な、真似を……」

○   ○   ○

 萬斎が慌ただしく、無線機のチャンネルをいじる。
「狙撃班、聞こえますか? 陣を張っている娘を撃ちなさい。分かりますか?」
 スピーカーから、門弟の声が聞こえてくる。
『……師匠、師匠』
「どうしました? 早くなさい」
『別の場所から……攻撃を受けています! 連中も、銃を持って……!』
 破裂音。
 それを最後に、無線機から聞こえるのは雑音だけになる。
「…………!」
 モニターに視線を戻す。その映像が二つ、三つ、次々に途切れ、砂嵐の画面に変わっていく。
「……なんたること……!」
 萬斎の顔に、初めて焦燥の色が浮いた。敵方にまで遠距離の砲撃を使う者がいることまでは、予想しきれていなかったのだ。
 万全だと思えていた態勢が、崩れかけている。残る手駒は何か。地蜘蛛衆はあとどれだけ動員できそうか。思案を巡らせる萬斎の耳に、異質な声が届く。
「なん、こう、ぼう」
「!?」
 傍らにいた、松子の姿を見る。今まで抜け殻のようだった松子の顔に血色が戻り、中空に向けて手を上げている。
「あやつの、力じゃ。南光坊よ、私を、助けに、来てくれたのか」
 南光坊だって。そんな、馬鹿な。先の報告で、彼は智己と交戦し、倒されているはずだ。
 中央のモニターに映された陣が、一瞬だけ萬斎の視界に入ったが、その映像も、消えた。

○   ○   ○

 スコープの中に、右往左往しながら敵の姿を探す黒服の男の姿が見える。
「……優しい的ですね、実に」

 パン!

 数瞬のあと、黒服の男が肩から血を吹いて、倒れる。
「動きが素人そのものです。狙うことばかりに気が行って、狙われることにはまったく考慮が及んでいないと見える」
 手にライフルを抱えた青年。スコープから目を外し、額の上に退避させた眼鏡を元の位置に戻す。
「……もう少しその余裕、もっと早くに見せていただきたかったですわ。まったく、寿命が縮むかと思いました」
 脇に控えていた香奈が、青年に毒づいた。
「いいじゃないですか。美人薄命と言いますしねぇ」
「婉曲的に世辞を言っていただいても、ちっとも嬉しくありませんわ。捕まったら寿命が縮むどころでは済まされなかったでしょうし」
「やはりあれですか。きやつらは『繁殖』を狙っていたのですかね。一度現場写真を見せていただいたことがありますが、あれは流石に目を背けました」
「やめてくださいまし、想像したくもない……」
 彼らが香奈たちの助けに現れたのは、結界が破られるまさに寸前。ビル内部に設けられた抜け穴からの登場だった。文字通り穴の中にひしめいていた地蜘蛛と交戦しながらの行軍であったため、到着に時間がかかったのだという。
「まあ、いいじゃないですか。こうして無事に東汝鳥勢の援軍に入ってこれたわけですし……おや、あれは」
 隣のビルの屋上に、妙な人影が見える。ペンライトをこちらに向けて、それをしきりに明滅させている。
「……どなたですか?」
「見覚えがありませんね。攻撃をしてこないところを見るに、こちらと交渉を望んでいる風に見えます」
 黒い厚手のジャンパーに身を包んだ長身の男である。彼は香奈たちが気がついたと見るや、街の一角を指差した。
 その先に見えるのは、別のビルの屋上。やはり、別の黒服がライフルを手に周囲を警戒しているのが見える。
 続いて、ジャンパー男は別の一角を指差す。
「……なるほど。どうやら共闘を望んでいるようですね。あちらは自分が引き受けるから、我が方は向こうを射てほしいということらしい」
 香奈が首を傾げる。
「信用、できるのかしら? 東汝鳥にもあのような方はいらっしゃいませんでしたよ」
「詳しいことはよく分かりませんがね。楽ができるなら利用しない手はないでしょう。さて、もう一仕事と行きましょうか」

○   ○   ○

 上空で断続的に響く銃声を聞きながら、そらが電話を続けている。
「……うん。狙撃部隊到着したみたい。あとは警察にも根回しよろしく。何か聞かれたら全部あいつらのせいにしちゃっていいから。じゃ、またあとで」
 そらは電話を切る。ネイはというと壁にけだるくもたれかかり、そらの電話の様子をずっと聞いているだけだった。
「ふん。ファミリーに介入させたか。生徒たちだけに任せておけばよいものを」
「あの子らの相手は妖怪だけだし。こんだけ大事になっちゃったら、もみ消しは必要でしょ」
「まあ、その辺は好きにやれ……さて、そろそろ戻るか」
「……まだ修羅場中だと思う」
「せこせこと逃げ回るのは性に合わん。もう大通りを堂々歩いても、撃たれることはあるまい?」
 ネイがずかずかと裏通りを出ていく。そらは表情一つ変えることなく、無言でそのあとに続くのだった。

弥生(12)

 封印の前では、依然として智己と真琴が睨み合いを続けていた。
 智己はうろたえながら、背後を見る。
「ど、どうやったら葦矢のマインドコントロールを解くことができるんですか!?」
 ……だからコントロールされてるのは、あなたですってば。
「そうねえ。何か強烈なものを見せてあげれば、ショックで暗示が解けるかもしれないわ。例えば、鷲塚君も自害する振りをして見せるとか」
 何を言っているんだ、この女は!
「なるほど……それは一里ある」
 あーあ、真に受けてしまった。智己までもが、真琴を真似るように、首筋に刀をあてる。
「見えているか、真琴……君が自刃するというなら仕方がない、僕も一緒に首を切って死のうじゃないか」
「あんな女の言うことを鵜呑みにして……恥ずかしくはないのですか?」
「彼女は信用できる……監禁されていた自分に声をかけて、外に出してもくれたんだ」
「……では、それ自体が智己さんを操るための懐柔であるとしたら?」
 智己が目を大きく見開く。
「そんなの……嘘だ」
「会って日の浅い見ず知らずの女と、長年共に生活してきた肉親と。どちらの言うことを信用すると言うのですか!」
「…………」
 明らかに動揺の色が濃くなっている。あともう一押しあれば、暗示が解けるかもしれない。
 では……。
「まったく、智己さんは隙が多すぎます。
 ……そんなことでは、柚木先輩にも嫌われますよ?」
「なっ……!」
 刀を持つ手が一瞬、震えた。これはかなり効いている。真琴の背後で陣を展開している塔子本人が、かなり複雑な表情をしているのだが、真琴の位置からは確認できないので、それはさておく。
「ゆ、柚木先輩は関係ないだろう!」
「関係大有りよ。柚木先輩だけじゃない、オカミスのみんな、剣研のみんなが、容易く操られたあなたに失望するわ。みんな、智己さんの目を覚まさせるために、必死に戦っているというのに」
 智己の目が泳ぎ始める。
「そんな……そう言えば……他の部員を僕はまだ見ていない……みんな、どこにいるんだ……?」
 背後から、女性の声が飛ぶ。
「ここには誰も来てはいない。迷っては駄目よ、鷲塚君」
「いいえ、迷いなさい智己さん。落ち着いて考えるの。あなたは今の今まで、誰と戦っていたのかしら?」
「敵と戦っていたのよ、鷲塚君!」
「嘘よ。味方と戦っていたのよ、智己さんは!」
 智己の動揺が激しくなる。自分の首に刀を突きつけることも忘れ、腕をだらりと下げ、目は空中をさまよい始める。
「そんな、馬鹿な……あれは確かに、襲い掛かってきて、敵だったはずで……僕は何を斬った? 味方を斬った? そんなはずは……僕は操られてなんか……」
「操られてなどいないわ、鷲塚君。迷うのを止めなさい!」
「操られているのよ、智己さん。きちんと、現実を見て!」
 女性二人の声が、智己を挟み込む。それらの声に智己の意識は貫かれ、千々に乱れる。
 そして。
「う、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 絶叫がびりびりと大樹を揺さぶった。智己は血をも吐き出さんばかりの叫びを周囲に放ったのち、自らの剣を天高く振り上げる。
(まさか……?)
 真琴が一歩後ずさる。しかしその剣は、真琴の体を斬り捨てようとする代わりに。

 どすん。

「う、ぐ……あっ!」
 右足のスニーカーが真っ二つに裂け、智己の素足に、ざっくりと、刀が突き立っている。
「智己さん!」
 真琴は備前長船を取り落とし、智己の側へと駆け寄った。智己は自らの足に剣を縫い付けた態勢のまま、脂汗を流している。
「教えてくれ……僕はいったい……誰を斬った……?」
「暴走した汝鳥の一般市民の方……多分……でも、襲い掛かってきたのがあちらなら、正当防衛だと思うわ」
 真琴はあえて、南光坊や小次郎の話は伏せることにした。
「それでも、僕は……取り返しのつかないことをしてしまった……ただの人間を相手に、刀を振るうなんて……」
「悪い夢を見ていたのよ、智己さんは。夢なら忘れてしまえばいい」
 真琴はゆっくりと智己の手を解かせ、その肩を抱き寄せる。
「お帰りなさい、智己さん」



 その様子を眺めていた黒服の女性は、スピーカーを傍らに打ち捨てると、体を反転させて走り出した。
(なんてこと。自力で暗示を破るなんて……)
 ともあれ、計画は失敗だ。萬斎に何と申し開きをすればよいだろう。そう思いながら数メートル走ったところで、彼女はそれを心配する必要がなくなってしまった。
「どちらに行くつもりですか?」
 春菜が穏やかに、しかし剣呑な拳を作りながら、正面で立ち止まった女性に尋ねる。
「あー、は、ははは」
 女性は愛想笑いを浮かべ、両腕を開いて春菜に歩み寄る、と。
 鳩尾に向けて拳を打ち放った。
 春菜は落ち着いてそれを捌くと、目にも止まらぬ動作で女性の懐に入り、その腰に右手を、突き出した腕に左手をがっちりとロックする。
 相手の勢を利用した、全力の横投げ。春菜はそのまま体を返し、容赦なく頭から路面に叩きつける。
 脳震盪を起こし意識が一瞬とんだところに、足が落ちてきた。
 めきり。肋骨が折れる、鈍い音がする。女性が白目を剥いて、そのまま動かなくなる。
 春菜が汚物を払うように足を離したところで、近づいてきた気配があるのに気がついた。
 吹雪と晴海が、数メートル先で呆然と立ち尽くしている。
「……構わねえよ」
 春菜の心情を察したように、吹雪が言う。
「高槻がやってなければ、俺がぶっ殺してたさ」
「……狙撃の方は?」
「弾切れ起こしたんで、降りてきた。ま、もう撃たれる心配はないだろうよ。援軍も来たみたいだし」
 吹雪が見上げた上空で、乾いた破裂音がもう一発、響いた。

○   ○   ○

 二人の男女がもみ合いながら、部屋から転がり出てくる。
「お、落ち着きなさい! 落ち着きなさい!」
「南光坊! 南光坊! 南光坊!」
 萬斎が松子にしがみつくが、彼女はそれをものともせずに萬斎を引きずり続けていた。今の今まで車椅子の上で人形のようになっていた松子の、どこにこれほどの力が残っていたのか。
「ええい、放せ、放せえい!」
「ひっ!?」
 松子が力任せの呪詛を放ち、萬斎の体を数メートルほど吹き飛ばす。松子はそのまま壁を手がかりに立ち上がると、よろよろと通路をあてもなく進み始める。
 一方、萬斎は仰向けに倒れたまま、頭を振って周囲を見回す。
「だ、誰か! 誰かおりませぬか! あれを捕まえて、捕まえてください!」
「おやおや、御大」
 聞き慣れた声を聞いて、萬斎の筋肉は、硬直した。
 生きていたのか。
 いや、儀式は失敗し、彼女は連れ去られたと、地蜘蛛衆は言っていた。
 だとすれば。彼女が生きていて、自分に会いに来るのもまた道理。
 切り捨てた自分に、復讐を果たすために。
「ひどい有様ですが、何事かありましたか?」
 そう言って、地蜘蛛の姫巫女……巫呪姫が、地に伏した萬斎の後ろで、逆さまの笑顔を浮かべている。

○   ○   ○

「なるほどねぇ。連中、そんな大それたものを作っていたのデスか。それであいつら、町中から妖怪たちをかき集めていた、と」
 ウォレスがうんうんと頷く。徒歩による移動の道中、彼は恋花から、妖怪バスターが不在の間に起こっていた出来事について、一通り聞いていた。
「ま、そういうこと。奴らは二重三重に大厄の封印を解き放つための準備を整えてたってわけね。……ま、茄子娘が暴走して街はこの有様、地蜘蛛の儀式も潰してやったから、あとは坊やたちの頑張りでどうとでもなるけれど」
 恋花が先頭を歩きながら、ウォレスに受け答えしている。しかしなんだかんだ言って律儀なものだと、ウォレスは思う。その気になれば、彼と瑠璃よりもずっと早くに行って、地蜘蛛の陣を潰すくらいのことはやってのけられるはずなのに。
「さてと、長話が過ぎたようね。あそこ」
 その恋花が、十数メートルほど先にある雑居ビルの一つを指差す。
「奴ら、あそこに大掛かりな装置を作って、そこに妖怪たちを幽閉していたわ。今からそこを潰して、妖怪たちを解放するつもりなんだけど」
 恋花の指先を、ウォレスも瑠璃も凝視する。
「……煙、吹いてマスね。何デショ、火事でもありマシタ?」
「はて……?」
 ぼん、と、その煙を吹いているビルのフロアで小爆発が起き、一角の壁が砕け散った。その中から、煙とともに何かが高速で地面に落ちてくる。
「!?」
 三人は見た。煙の中から現れた巨大なバイク、そしてそれにまたがった、一人の巨大な鬼神を。
 それが恋花たちの脇を通り過ぎて、猛スピードでその場をあとにする。
 自失の、沈黙。それを最初に、瑠璃が破る。
「……先生。今の、龍波先輩じゃないですか。剣研の」
「アタシにもそう見えマシタねぇ……京都からこちらに来れるような怪我ではなかったはずデスが」

弥生(13)

「二、三、御大にお伺いしたいことがあります。お時間をご都合いただけまいか」
 そう言って、巫呪姫は鷹揚に笑う。しかしその肉体は、必ずしも万全とは言えないようだ。体の所々に、出血こそ止まっているが、えぐられたような傷跡が残っている。恐らく、地蜘蛛に体を食われかけた、その名残であろう。
 だとすれば。萬斎の力でも巫呪姫を捕えることは、十分に可能と見る。彼女はその傷を癒すために、妖力の大半を消費してしまっているはずだ。そうなれば、人の血が混じった彼女は、年相応の小娘でしかない。
 この娘をどうにか言いくるめるなり、ねじ伏せるなりして、地蜘蛛衆のところへ連れて行き、助力を乞うとしよう。地蜘蛛衆とて姫巫女が報酬となるならば、そうそう無碍には扱うまい。
「……なんでありましょうか。私は多忙ですので、できれば、手短に願いたいのですが」
「では。先刻、妾どもは念願の蜘蛛神を呼び出すため、準備を進めておったのですが……これが驚いた。地蜘蛛ときたら、蜘蛛神を呼び出すために妾の命を差し出せというのです。妾はそのために地蜘蛛と共に育てられていたことなど、とんと存じておりませなんだ」
 やはり。
 哀れな娘だ。愚かな娘だ。地蜘蛛の姫巫女が持つ本当の役割について、どうやら知ってしまったらしい。そのまま知らずにその身を捧げていれば、幸せに逝けたものを。
 それでは、ここに現れて萬斎にそのことを語る理由は、いったい何であるか。大方、そのことについて彼に泣き言でも言いに来たのか。それとも、匿ってほしいのか。
「それは、また」
 だから萬斎は、曖昧な返事を以って巫呪姫に返した。知っていたとも取れるし、知らなかったとも取れる。
「御大の家系と地蜘蛛衆とは、先代、先々代の、その更に前にまでさかのぼる付き合いと聞いております。ならば、御大もご存じだったのでありましょう? 地蜘蛛の姫巫女が果たす役割を。地蜘蛛たちに血肉を差し出さねばならぬ、贄としての役割を。どうなのです?」
 やはり、やはり。
 この娘は怒りをぶつけに来たのだ。地蜘蛛の餌にされかけたその憤懣を、萬斎に対してぶちまけに来たのだ。
 怒りをその胸に抱いている者は、扱いが容易い。その怒りに同調して見せれば、自らが味方であると信じ込ませることができるだろう。
「……仕方が、なかったのですよ。姫巫女の本来の役割は、口外してはならなかった。当然、姫巫女本人にもね。それが、我々と地蜘蛛衆が共闘するに当たり、交わした約束でした」
「やはりご存じでしたか……」
 萬斎は両腕を広げ、大仰に主張する。
「しかし、それを知って私に何を望みます? 彼らの望みを果たすには致し方ないことでした……姫巫女の生贄は痛ましきことですが、地蜘蛛のならいとあっては受け入れざるを得なかったのですよ。
 ですが巫呪姫さん、私はあなたを優秀な術者として、個人的には高く評価している。もうこうなっては、あなたが地蜘蛛に戻ることは困難でしょうが……あなたが望むならば、その身柄を隠し、新たな受け入れ先をお探ししましょう。いかがですかな?」
「流石は御大、話がお早い……最初に相談しに来て、正解でした」
 萬斎は、微笑む巫呪姫を見て、表情を崩さない。しかし内心では勝利を革新する。容易いものだ、自らのプライドにしがみつく者の懐柔は。
「では、巫呪姫さん……今後も私の同胞として、働いていただけますかな?」
 巫呪姫は、萬斎の前にひざまづく。
「喜んで。これからは地蜘蛛衆の姫巫女・巫呪姫ではなく、個人・巫呪姫として、力を尽くしましょうぞ」
 萬斎は、満足そうに頷いた。
「期待しておりますよ……では早速、河岸を改めましょうか。この場にとどまるには、少々旗色が悪くなって参りましたが故に」
 巫呪姫へと歩み寄る。隙さえあらばこのまま拘束して、地蜘蛛のところへ連れて行く。
 その肩に手が触れる直前、巫呪姫が再び口を開いた。
「お待ちください、御大。伺いたいことは、もう一つあります」
 びくり、と、手を止める。まさか、裏心があるのが、ばれたか。
「はて、まだ何か?」
「確か、御大と地蜘蛛との間に交わされた約束は、もう一つあったと聞き及んでいます。『回天の世を呼び寄せるために、御大は地蜘蛛へ力を貸すこと』と。この約束は、妾個人に対しても効を発するものでありましょうか?」
 安堵した。
 裏心を疑うものでは、なかった。
 これで堂々と、巫呪姫をたぶらかせる。
「はははははははは、は。何を問うかと思えば。無論、有効。有効に決まっておりますとも。ご安心くださりませ」
 そう言って、萬斎は両腕を広げた。
「そも私が大厄を呼び出せば、おのずと世は回天へと向かうというもの。双方の向かう方向が同じであるというのに、なぜ約束を違える必要がありましょうや」
 萬斎は、巫呪姫の前にしゃがみこむ。
「どうか、どうか。私を信じて──」
「御大は──」
 改めてその肩を抱こうとした、その瞬間。
 その両手は、巫呪姫の中へと、深く深く潜り込んだ。感触がない。熱を感じない。
「──嘘をつく時に、身ぶりが大げさになる癖があるようですね?」
 巫呪姫の声が、正面から背後に移動した。気づいた時には、もう遅い。
 ぞろり。
「ひっ!?」
 頭に、腕に、何者かの腕が絡み付く。狙いは、むき出しになった萬斎の首筋。
 血に飢えた二本の牙が、萬斎の血管を食い破る。
「ひああああああ!?」
 ずるずると音を立てて、巫呪姫は流れ出る萬斎の血を飲み込んだ。妖力が、活力が全身に満ちていく。
 十分すぎるほど血を堪能したのち、萬斎の背中を蹴り飛ばす。
「いだ、だっ! い、い、いたい、いったい、どうして!?」
「どうしても何も。妾の得意とするは幻術であったことを、御大はお忘れか?」
 巫呪姫は首を抑えて茫然とする萬斎の前で、血に汚れた自らの口を、荒々しく拭った。
「流石は御大、こんな状況でもよいものを食べておられる。市井の者は、あらかた骨と皮と筋しか残っておりませなんだ」
「わ、私がどんな不始末をしでかしたというのです!?」
「たばかるな、御大。いや、葦矢萬斎! お互い茶番劇は見納めとしようぞ……大厄を解放したところで、回天なぞ起こり得ぬ。そうであろう、葦矢よ!」
 血を抜かれて青くなった葦矢の顔が、更に土色ばんだ。
「な、ななな、何を根拠に」
「地蜘蛛に食われかけて、頭からほどよく血が抜けた様でな。半死半生の体だが機転はよく回ったわ……葦矢、そなたは、大厄を回天とは別の目的で利用するつもりであろう。そのことを、地蜘蛛に対しても秘している。違うか?」
「そ、そのようなことは、断じて、断じて」
「嘘をつくなと申しておる! そなたにも正義があろうぞ。妖の者と手を結び、己の手を血に染めてでも、頑なに守り通す正義が。そなたは最初から、その正義のために地蜘蛛を欺くつもりであったのだ!」
 巫呪姫は、呆然としている萬斎に背を向ける。
「此度妾がそなたを訪ねたのは、最初からそのことを確かめるためであった。そうであると分かった以上、そなたと肩を組んで戦うことなどできはせぬ。古き慣習に囚われ、そなたの甘言に惑わされる地蜘蛛衆もまた、協力するに値しない」
「……私とも袂を分かち、地蜘蛛にも戻らぬとおっしゃる。それで、どちらへ向かうというのですか」
「妾は生来地蜘蛛と共に生き、回天ばかりを願ってこれまでやってきた。今更人間に紛れて生きるなど、考えもできぬ。
 されば妾は妾一人となっても、回天を目指そうと思う。ただ、そなたとの縁はこれまでじゃ」
 思わず、萬斎の声が裏返った。
「ひ、一人で何ができるというのですか!? 古くは平安の代から地蜘蛛衆が果たせなかった回天を、あなた一人で!?」
 巫呪姫は萬斎に振り返り、酷薄に笑う。
「もはや、そなたが心配することではあるまい? 一千年を越える時を経ても地蜘蛛が果たせなかった回天を、妾一人で果たせるとは妾自身も思っておらぬ。
 だが、妾はまだ絶望するつもりはない。そろそろ、仲間も迎えに来てくれる頃合故な」
「仲間、ですと……?」
 巫呪姫が萬斎の疑問に応えることはなかった。もはや彼女は、萬斎に振り返って見せることもなく、通路の闇へと消えていく。
 一人取り残された萬斎が、思わず呟いていた。
「な、なぜ、ばれた……?」

弥生(14)

 トウカが歩きながら、左の薬指に収まった指輪を見る。
「綺麗な指輪ですわねぇ。装飾は地味ですけれども、アンティークの香りがしますわ」
 トウカの言葉を聞いたジョシュアが、げんなり来る。ちなみに彼は、やっぱりリュックに拘束されたまま、定位置と化したトウカの背中に収まっている。
「おいおい、勘弁してくれ……その指輪は我々の所有品なのだがね。そろそろ返してもらいたいのだが?」
「だってさ。そろそろ我がままもほどほどにしたらどうだい、お嬢様? せめてその右手に持ってるものはポイしなよ」
 朱陽がトウカの背後に追随しながら、声をかける。その背には麗を背負い、若干おぼついた足取りでの追跡である。
「いやですわ。こんな希少なコレクション、滅多に手に入りませんもの」
「「おいおい……」」
 心せず、ジョシュアと朱陽、二人の声がステレオとなった。
「……無邪気な、ものだ」
 トウカの右下辺りから、供馬尊の声がする。
 彼はというと、唯一残った四肢である右腕をトウカに掴まれ、ずるずるずるずると道路を引きずられていた。その様は、さながら手足をもがれて、なお乱暴に扱われる人形の玩具にも似る。
「魔神をコレクションに加えるのは、お勧めしないよ? 半死半生の身とは言え、まだ生きてるし」
「て言うか、いつ隙を見て指輪を奪うかも分からんだろうに。そろそろ人の話を聞けー」
 しかし久々に表に出てきても、彼女のマイペースは変わらない。
「ねえ、ジョシュアさん。この指輪、いいと思いません? 私とジョシュアさんの、結婚指輪に」
「だからそれは我々の……って、ええええ!? なぜそうなる!? て言うか私は同意してないぞ、そんなの!」
「だってこの指輪、ジョシュアさんのものなんでしょう? ジョシュアさんから私にくれたのでしたら、立派な結婚指輪ってことですわ」
「聞こえてるじゃないか、て言うか、自分に都合よく聞き間違えるな! 私じゃなくて我々の持ち物! それにあげた覚えはないから!」
「それでジョシュアさん、挙式と披露宴はいつになさいますー?」
「人の話を聞けーっ!」
 朱陽が脱力感を覚えつつ、ジョシュアに声をかける。
「ご愁傷様、人生の墓場へようこそってか。まあ諦めな。こいつの自分本位はいつものことさ」
「いつか後ろから刺されるぞ……」
「そうなるのも、いたたまれないしねぇ。兄貴に『めっ』してもらうのが、一番手っ取り早いんじゃないか?」
 朱陽がそう言った途端、トウカがぐるり、と、朱陽の方に体を向ける。
「お兄ちゃんは関係ありませんわ!」
「「やっぱり聞こえてんじゃねえか」」
 朱陽は背負った麗がずっしり重くなるのを感じつつ、封印の大樹を見上げる。
「さて……安全なの見計らって、戻ってきた奴が多そうだ。鷲塚の奴ぁ正気に戻ったのかねぇ」
 大樹の根元に、ちょっとした人だかりができている。

○   ○   ○

 そらが智己の足に包帯を巻いている。
 対する智己は、足の痛みに声を上げるどころか、何に対しても反応を示さず、膝を抱えて脱力した抜け殻のようになっていた。
「まあ、何だ。がっかりすんな」
 吹雪が潰れた智己の肩を叩く。
「一般人を誤認しちまうのは、ベテランでもよくある話さ。まして暗示にかかってたんなら、なおさらだろう」
「……自分が情けないよ。ついさっきまで戦ってたのが、朝霞先輩だったことにすら気づかなかったなんて」
「喜べよ、殺されなかったことを。暗示にかかってないって思い込む奴ほど、その実暗示にひっかかりやすい。また一つ学習したな?」
「ずいぶんと優しいね。こんなことになって、君は一番責める側の人間だと思っていた」
「見くびるなよ。こう見えてもここ最近の順当な成長振りは評価してんだ。確かに京都じゃ直前になってヘタレたが……それでもお前のパフォーマンスが剣研、オカミス全員の命を救ったことにゃ代わりがねぇ。あまり女々しい姿を見せて、幻滅させんな」
 第三の声。
「ふーん、あっちでそんなこともあったのねぇ。短い間だったけど、大したレベルアップじゃないの」
「……きやがった」
 吹雪が、思わず懐のこすもるがーを探る。背後に、九本の尻尾を背に生やした女が近づいてくるのが見える。
 すかさず、ウォレスが間に割って入る。
「あー、冬真くン、とりあえず大丈夫。彼女とは今、休戦中デスから」
 冬真は、恋花と共に近づいてくる瑠璃を確認してから、こすもるがーをしまう。
「……みたいっすね。何ですか、もう多賀野が話をつけましたか」
「ま、そんなところデス」
 恋花がけらけらと笑う。
「ずいぶんとまぁ、揃い揃ってぼろぼろねぇ。ここで私が空気を読まずに仕掛けたら、弱いものいじめになっちゃうわ」
 瑠璃がぼそりと、耳打ちする。
「いいんですか、そんな虚勢を張って。レンちゃんの話ではかなり消耗なさっていたはずですけど」
「いいから黙ってなさい」
 吹雪が恋花に尋ねる。
「で、その休戦とやらはいつまで有効なんだ? どこぞの国同士みたく、永久になあなあにしといてくれると、こっちゃ助かるんだが」
「そうねぇ……」
 恋花が、新たに近づいてくる影に目を止める。
「あれの顛末を見届けてから、ゆっくりと考えるとしましょうか」
 供馬尊の半身を連れたトウカたちが現れたのは、そんな折だった。

○   ○   ○

「やれやれ。最大の見せ場には、どうやら間に合ったようでありますねえ」
「らしいわね。ついでに大した戦闘に巻き込まれなければ、もっといいんだけど」
 ビルの物影から、大顎と藤間美音子が、大樹の前に集まった集団を眺める。
 奥多摩から供馬尊らをゆっくりと追い、ようやくの到着である。揃って汝鳥に入り込む一匹の猫と一匹の犬は、警察の抑止対象にはなり得なかった。
「ま、そちらも旦那方が片づけてくれそうですし、問題ないでしょう。そろそろ、何か始まりそうですよ」

弥生(15)

 供馬尊は、ウォレスの拳骨一発により解放された。
「ひどいですわー」
「ついでに私と指輪も……」
「あー、ややこしいところは後回し。とりあえずこの方の処遇を決めマショウか」
 全員で、そのミイラの上半身のような物体を取り囲む。途方もなく年老いたそれは、動く気力すら残していないようだった。
 その処断については、香奈が真っ先に口火を切る。
「京都に戻して再度封印し直すのが、妥当であると思われますの。元ある状態に戻すのです」
 吹雪がそれに同意する。
「俺も賛成かな。現状維持ってな腑に落ちない終わり方だが、無難な選択でもある」
「逆に言えば、もっといい方法があれば、そっちにするべきってことだよねぇ?」
 朱陽の言葉に、何人かが重々しく頷く。
「こいつにとっては正当防衛かも知れんが、だ。結果としてロックウェル先輩、鋼音、それに八神も大怪我を負わされてる。私個人の感情論かもしれないが、もう二度と外に出てこれないような封じ方をしてもらいたいんだけどねぇ」
「否定は、しない」
 供馬尊の声が、弱々しく響く。
「だから、君たちの気の済むように封じてくれたまえ。だが結局、それは百年前に私を封印した連中と、まったく大差ない行為だ。私はそれに少々の失望を感じつつ、眠ることにしよう」
 一同が沈黙する。
「……そう。百年前と同じ、というのが、多分問題なのだわ」
 今度は、春菜が口を開く。
「百年前に彼を封印したのは、あの葦矢氏の祖先に当たる人ですよね。厳密な現状維持を目指すのであれば……彼に封印を頼まないといけないのではないでしょうか」
「いやあ、それはどうかと思いマスよ?」
 ウォレスが首を振る。
「今からあのオッサンを探し出してヤキ入れて、封印させるとしマシても、素直にそれを聞いてくれるとは思いマセンがねぇ。なんでこの方を復活させたのかも、謎のまんまデスし」
 香奈が再び声を上げる。
「では、どのような方法があると言うのですか? 京都にも葦矢氏と同等の術者はおりますし、前と同じ封印を施せない、なんてことは……」
「あの、もっといい方法なら、あると思いますよ」
 小さい声で、しかしはっきりと、声を出した者がいる。
 供馬尊が首を微かに動かして……その発言者、瑠璃を見る。
「供馬尊様は、覚えていらっしゃいますか? あの奥多摩で、美音子ちゃんが言っていたこと」
「美音子……ああ、逃げるか封印されるか、どちらかを選べと言っていた、不遜な化け猫がいたな。彼女のことか」
「重要なのはそこではありません。単に封印するのではなく、ですね。
 神として祀られる、というのはいかがでしょうか?」
 一同が怪訝な顔をする中、恋花だけが、合点が行くように鼻を鳴らしていた。



 瑠璃は、かつて辰之進に憑かれた状態で供馬尊と行動を共にしていた折、奥多摩で美音子が供馬尊に語って聞かせたことを妖怪バスターたちにも説明した。
「妖怪を神として奉る行為には、その憎悪を鎮め、また安住の場を提供するという意味合いもあると思います。同じ封じるにしても、そういう選択もあるかと思うのです」
 香奈が瑠璃の説明を聞いて唸る。
「なるほど、退治ではなく神になっていただくと……。古今東西、例には事欠きませんわね」
「この方法に必要なのは、神としての格を持たせるための信仰です。古くから妖怪が集う場所であるこの汝鳥であれば、それを集めるのも易しいと思います」
「問題が一つあるわよ、その方法」
 恋花が手を挙げる。
「そいつは、神として祀られるにゃ十分な力を持ってると思うわよ、確かに。ただ、半身だけ神として祀るってのはどうかと思うわ。もう半分は、まだこの地下で眠ってるわけだし」
 とんとん、と、恋花は地面を踏み鳴らす。
「合祀してしまうというのは、どうでしょう?」
「合祀つっても片一方は、全然別の封印に閉じ込められてるわけでしょ? 元々同一のものを合祀っていうのも、聞いたことがないし。
 ……というわけで、更に提案なんだけど」
「いったん封印を解こうと思います」
 背後から、新たな声。妖怪バスターたちが一斉に振り向く、と。
 此花咲哉が、大樹を背に彼らへと歩み寄ってきていた。出迎える恋花が、声をかける。
「……木の面倒は見なくて、大丈夫?」
「大丈夫、というかそろそろ限界でして」
「……ああ」
 ぱきん、という音が、耳に届いた。
 最初は、小さく。
 それが大樹の内部から、次第に幾度も聞こえるようになり。
 最後は木全体を揺るがす、大合唱へと変化する。
 ばらばらばらばら、と、妖怪バスターたちの頭上に細かい何かが降り注いだ。頭にぶつかったそれを手に取って見る、と。
「……木枝?」
 細かい枝や、樹皮。全てが脆く、手に握れば簡単に崩れ落ちて、細かな粉末になる。
「どうにかここまでもたせてきましたが、下の子の元気を押さえつけておくのは、もう無理そうなのです。その前にですね、正規の手段を以って封印を解いてもらえませんか」
 塔子が表情を険しくする。
「戦いになるのですか」
「信じてもらえるかどうかは、分からないが」
 供馬尊の声が割り込む。
「完全な体を取り戻したとしても、動く余力はほとんど残っていない。それでも疑うならば、容赦なく斬りたまえ」
 崩れる樹木の破片が、ほとんど雹かあられの勢いになりつつある。そんな中、真琴が咲哉に尋ねる。手には、備前長船。
「正規の手段、とおっしゃいましたが……」
「お察しの通り。鴉取の者が錠前、『剣』が鍵の役目を果たします」
 智己が飛び起きる。
「備前長船で、斬られればいいんですね!? だったら、僕が」
「慌てないで。確かにその通りですけど、斬る『振り』だけでも開錠の意味を持ちます。ではお二人とも、前へ」
 智己と真琴が、再び向かい合う。真琴が備前長船を抜き、智己がそれを受け止めるように無防備で立ち尽くす。
 その様子を眺めながら、吹雪がぼそりと呟く。
「大厄の封印を守るために戦って、結局は封印を自分らで開ける羽目になる、と。ずいぶんと不毛な戦いになったもんだ」
「意味がないわけじゃないわ」
 皮肉を耳に止めた春菜が、それに応じる。
「幾多の困難を経て、私たちは勝利してここにいるわけでしょう。そのお陰で、晴れて彼の行く末を担う権利を得たわ」
「魔神一体の生殺与奪をあの葦矢から奪ったとしてもなあ。その先に幾万の財宝があるわけでもなし。毎度毎度ながら、酷な仕事だ」
「それでも、好きでやっていることでしょう? さもなくば、すでに剣を折っている」
「違いない」
 二人は以降黙って、他の妖怪バスターたちと共に、剣を振り上げる真琴を見る。
 その太刀筋が白く輝いて──

○   ○   ○

 その光景は、汝鳥のどこからでも見ることができた。
 市内の各所で依然として、不毛な戦闘を繰り広げていた汝鳥市民が。
 市の周囲を封鎖していた機動隊の警官たちが。
 全てが全て、その崩壊を目にすることになった。
 汝鳥市内の建物を押しのけるように立っていた桜の大樹が、溶けるように崩れ落ちていく。
 波にさらわれた砂の楼閣のように。
 野ざらしになった氷のように。
 全ては溶け、崩れ、その高度を次第に下げていく。人工物の狭間に突如現れた不自然が、自然な状態へと帰っていく。
 その光景は市民たちを、警官たちを、崩壊の現場へと駆り立てるには十分だった。

○   ○   ○

「……げほっ」
 頭の上に降りかかった樹木の屑をはねのける。
 あれだけの質量のものが崩れ落ちた割には、下半身までが木屑で埋まる程度で助かっているのが、不思議と言わざるを得ない。かつてニューヨークで起こった大惨事の映像のような事態になっても、しかるべしなのだが。
 結局のところ、あの大樹は封印を圧倒的な力によって押さえつける象徴的な存在であり、その本質は木花之佐久夜毘売の慈愛に満ち溢れたものであったのだろう。
 妖怪バスターたちに、大した外傷はない。しかしその中心にいた、干からびた上半身の姿はどこにも見当たらず。
 刀を下した真琴と、立ち尽くす智己と。
 その間に、先ほどまでいなかったはずの人影が現れていた。
 黒い、ぼろぼろのローブに身を包み、フードを真深に被った老人の姿である。
「……皮肉なものよ。念願の体を取り戻したというのに、ろくに動くことも適わんとは」
 それが供馬尊の完全な姿であると気がつくのに、さしたる時間は必要としなかった。

弥生(16)

 供馬尊を取り囲む妖怪バスターたちの背後に、たどたどしくうごめく影があった。
(供馬尊……まさか、子供らが自ら、復活の選択を行うとは……!)
 萬斎は背広の内ポケットを探り、呪符のストックがまだ残っていることを確認した。
 私が。我が一族が。
 待ちに待った、大厄・供馬尊の復活。
 誰にも渡さない。
 誰にも邪魔をさせない。
 あれは私のものだ。
 あれは私の獲物だ。
 すでに狙撃班との通信は途絶し、市内に散ったほかの門弟たちとも連絡は取れない。
 松子は興奮状態に陥って逃げ出し、巫呪姫は萬斎の下を去り。地蜘蛛衆もまた音沙汰がなくなってしまった。
 しかし、そんなものはどうでもいい。全ての財産を投げ打ち、全ての地位を投げ打ってでも、我が血族の悲願は達成しなければならない。
 不完全だった供馬尊の封印を再度解放し、再度完全な形で封印し直すために──!
「葦矢」
 短く、自分の名前を呼ばれたような気がした。
 思わず、足を止めて振り向いて──

 ──しまったことが、運の尽きだった。

 目の前に現れたのは、視界いっぱいの手の平。
 そのままアイアンクローの要領で、顔をがっちりと掴まれ、宙高く掴み上げられた。
「な……!」
 足が地につかない。片腕で、宙吊りにされている。
 指の狭間から目に入ったものは、燃えるような深紅の瞳と、頭頂から一本の鋭い角が生えた青年の姿。
(鬼……がなぜ、私を!?)
 鬼が。相馬小次郎が、口を開く。
「腑に落ちぬ面をしているな、葦矢の末裔よ。貴様が私の顔を知らずとも、私は貴様の顔をよく知っている。その人を食ったような面構えは、一族でまったく変わらんからな。
 聞かれなくても教えてやろう。我が名は、相馬小次郎。東汝鳥の封印の、南東の柱だ」
「そ……う……ま……?」
「百年前、貴様の祖先がしでかしたこと、知らぬとは言わせんぞ。あの時京都で供馬尊に対して施された封印は、不完全であった。そうであろう?」
「ぬ、ぐ……!」
「供馬尊の封印は半身のみに終わり、もう半身が遥か江戸まで逃げおおせた。貴様の祖先は功を焦るあまり、江戸に新たな封印を築こうとしていた汝鳥の民を害し、半身を奪おうとした。あの鷲塚という青年と同じように、暗示をかけた妖怪を使役することでな!」
「ま……さか……」
「その、まさか、だ。その際操られた間抜けが、この私だ」
 小次郎の、萬斎を掴む手に力が篭る。
「私は操られるがままに汝鳥の民と戦った。自力で我を取り戻したがその時はすでに遅く、多くを傷つけ、多くを殺してしまっていた。私は人間風情に操られた我が身を、かつて寝食を共にしてきた汝鳥の民を害した我が身を恥じて、あえてその身に刃を受け、封印されるに至ったのだ」
「お、お、お、お許しください、お許しください……!」
 小次郎の指の隙間から、熱いものがぼろぼろとこぼれ落ちる。
「許す?」
「封印は確かに不全でありました。他の方々は被害が拡大することを恐れるあまり、半身の速やかなる封印を決定なさりましたが、それではこの度のように、短い時間で結界にほころびが生じてしまいます。万全な形で、大厄の全身を一カ所に封じねばならなかった。
 だから我が曾祖父も、つい出来心で……」
「違うな」
 短く、突き放すような小次郎の一言が、萬斎の弁解を完全なる無へと叩き落とす。
「どこまで行っても貴様の祖先も貴様自身も、自身の名誉のことしか考えておらん。だからこそ誰の手も借りぬばかりか、妖怪の一党とまで手を組み、鴉取の家に双子が生まれるのを待ち構えていたのであろうが。
 それに端を発し、東汝鳥はこの有様。多くの人妖が傷ついた。全ては貴様等一族の身勝手がこの現状に通じているのだ!」
 ひっ、と、小次郎の手の中で小さな悲鳴が聞こえた。
「本来なら公の場に晒して裁きを受けさせるべきであろうが、貴様の如き愚物は、あの子らに処断されるにすら値しない。だから貴様には、もっと陰惨な末路をくれてやる。
 ここで潰れろ、人の皮を被った腐れ外道が!」

○   ○   ○

「……?」
 塔子が周囲を見回した。サワンが声をかける。
「どしたの、塔子ちゃん」
「今、どこかで大きな力がぶつかり合うような衝撃を感じたのですが……ああ、あれだろうか」
 塔子はビルの谷間に目をやった。爆音と共に、一台の二輪車が猛然とこちらに近づいてくる。
 吹雪はそれを見て、若干血の気が引くのを感じた。
「……あー、この場をかき回しそうな人が来ちまったかなぁ」
 その輝充郎を乗せたバイクが、妖怪バスターたちの十メートルほど手前で、荒々しいドリフトによって慣性を殺し、停止する。
 輝充郎はバイクの上で背を伸ばし、妖怪バスターたちの中央に座り込んだ供馬尊を覗き込む。
「なんだぁ、こいつが最後か!? 弱々しいなりで全然足りそうにねぇな」
「落ち着いて、輝充郎さん」
 蒼子が声をかける。
「どうやらこれから、封印の儀式が始まるようですわ。失敗した時のために、私たちは控えていましょう」
「……そうかい、つまらん。じゃあとっとと始めろや、その封印の儀式ってのを。そしてとっとと失敗しろ」
 輝充郎はどっかりとサドルに腰を下し、腕を組む。塔子はそれを少しの間だけ眺めてから、視線を外した。
「……非常時の控えも来てくれたようだし、そろそろ始めようか。多賀野、祭祀の手順について、何か提案はあるか?」
 瑠璃が質問に応じる。
「封印の手順とおおよそ変わらないと思います。四方を四の神器と共に囲い、神として奉るんです」
「すると祀る者も四人いた方がよいということか? 北東が戎神社の多賀野で──」
「ちょっと待ってください。そういうことなら……私は南西にさせてもらってよいですか?」
 恋花がため息を吐く。無論南西とは、彼女が祀られていた天乃原のある方角である。
「罪滅ぼしのつもり? この程度じゃレンが失った神通力の、十分の一にも満たないけれども」
「お望みならばいつまでもお祀りさせてもらいますが。それこそ、私の一生をかけてでも」
「……好きになさい」
 塔子が瑠璃に尋ねる。
「では多賀野が南西を担当するとして……北東は誰が代わりを務める?」
「ええ。真琴さんにお願いしようかと」
 真琴が驚いて、自分を手の平で指し示す。
「私が?」
 瑠璃は真琴の持つ備前長船を指示す。
「その刀は元々、鴉取の家の宝刀だもの。その血筋の人が担うべきだと思うの」
「うーん。巫女の経験なんてないのだけれども。粗相があったら、お祀りできないなんてことになっちゃわない?」
「その辺りはうまくフォローするから。象徴的なものだと考えて、参加してもらえないかな」
「そういうことなら……」
 塔子が周囲を見回す。
「さて、残りは北西と南東だが……」
「私が、やるわ」
 麗が立ち上がろうとするのを、朱陽が押しとどめる。
「おいおい、あんたは安静にしてなよ」
「でも、それじゃあ、木花之佐久夜毘売を祭神とする、私の、面目が」
「私がいます」
 朱陽に並び麗の肩を押さえたのは、春菜だった。
「……そっか。あなたには、一通りの作法を教えたものね」
「これも何か、予行のいい機会ではないかと思います。やらせてもらえませんか?」
「……悪いけど、お願いするわ」
 そこへ咲哉が、にこにこと笑いながら近づいてくる。
「はい。お返しします」
 咲哉が春菜に手渡したものは、塔子から春菜に貸与され、更に咲哉へと預けられたあの鋼の錫杖だった。
「あなたは櫛よりも、こちらを祭具として用いた方がよろしいですわ」
「ありがたく、使わせてもらいます」
 続いて、香奈が前に進み出る。
「高槻さんが、北西ということですわね。では南東は私が代理を務めさせていただきます。これで四方、全て揃ったかしら」
 塔子が再び口を開く。
「配置は決まったな。では最後に祀られる側の意志を確認しておくが──」
「いいだろう」
 供馬尊がぼそりと言う。
「封印されるとは言っても、百年前と扱いが異なるというのなら、それにかけてみてもいい。できれば、住みよい社を建ててくれまいか」
「了解した。……では、早速神事に取り掛かるとしようか。締め縄は私の陣術にて代用する。リミットも近いし、一発勝負で頼む」
「かしこまりました。では神器をお持ちの皆さん、供馬尊様から見た方位にそれを配置してください」
 神器の使用者たちが、それらを供馬尊の周囲に置いていく。吹雪がこすもるがーを(真っ先に)南西に、鏡を北西に。朱陽が白河塗りの木刀を南東に。そして真琴が備前長船を北東に。
「ああ、あともう一つ」
 供馬尊が口を開く。
「あの吸血鬼。もしもまだ生きてるのなら、よしなにしてやってくれまいか。彼も、被害者だ」
 瑠璃が頷くと、全員に呼び掛ける。
「祓詞を奏上することにより、供馬尊様の穢れを祓い、神として奉ります。奏上の間は供馬尊様に対して頭をお下げください」
 妖怪バスターたちが供馬尊の前に控え、頭を下げる。各方位には瑠璃、春菜、真琴、香奈がそれぞれ立ち、祈りを捧げるように手を合わせる。
「掛まくも畏きいざなぎの大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に……」
 と、瑠璃が祝詞を唱え始める、と。
 供馬尊の姿が、ほのかな光に包まれ、次第に薄れ始める。

弥生(17)

「……おお。おお、おお」
 松子が遠巻きからそれを眺めている……尤も、その目は目隠しに覆われて、何も見えてはいないはずなのだが。
「南光坊が……私に代わり、邪なものを封じてくれておる……」
 その顔の先には、陣術を展開する塔子の姿があった。
「ありがとう、南光坊、ありがとう」
 その松子の体はコンクリートの壁にもたれかかり、力なくその場に崩れ落ちていった。

○   ○   ○

「……聞食せと恐み恐みも白す」
 祝詞を唱え終わった瑠璃の前に、すでに供馬尊の姿はなかった。
「……消えた?」
「いや」
 塔子が供馬尊のいた場所に歩み寄り、何かを拾い上げる。それは、塔子がいつも陣術に使っているチェスの駒……ナイトの駒だった。
「神霊として昇華したのだ。実体はなくなったが、この場に確かに、存在している」
「お社を建ててあげないと行けませんね」
「ああ」
 吹雪が周囲を見回しながら言う。大樹が存在していた場所は、広大な空き地と貸している。
「そいつには賛成なんですが……そう簡単に建てれますかね? 警察の検分とかも入りそうだし」
「何、その辺はうちの顧問が何とかするだろ」
「あっさり言いすぎデスよ、柚木さン」
 ぼやくウォレスの背後で、爆音が響く。
「ちっ、出番なしか! さあ、次はどこへ向かうか、ブル・ファントムよ」
 蒼子が息巻く輝充郎に、のんびりと答える。
「そうですねえ、このまま日本一周しながら、妖怪討伐巡りなど、いかがでしょう?」
「悪くねえな! 乗ったぜ、その案!」
 バイクが土煙を上げ始める。塔子はエンジンを吹かす輝充郎に声をかける。
「おい待て、龍波!」
「龍波ぃ? 誰だ、それは。俺はそんな名前じゃあねぇ」
 ぐるり、とバイクごと反転する。
「今の俺の名は、炎雷鬼神・皇牙! 縁があったら、また会おう」
 ひときわ大きなエンジン音を響かせると、輝充郎と蒼子はその場を走り去っていった。
 吹雪が晴海に言う。
「……あの人、『輝充郎さん』って呼ばれて返事してませんでしたっけ……?」
「多分、テンションが上がりきってるだけじゃないですかね……」
 一同が、沈黙する。
 その耳に、新たな騒音が聞こえてきた。パトカーのサイレン、ホイッスルの音、スピーカー越しに、生存者へ呼びかける声。
「……どうやら警察が行動を開始したか」
「それじゃ、いったん帰ろっか。いらないごたごたに巻き込まれないうちに」
「よぉし、戦勝祝いに何かうまいもんでも食いに行くかぁ!」
「センセ、この辺の店、やってないデスから」
「あの辺は相変わらずだねぇ、まったく」
「お父さんお母さん、大丈夫かなぁ」
「智己さん、朝霞先輩を運んであげたら」
「僕も怪我人なんだけどなぁ」
「八神先輩も、動けますか?」
「うーん、まだまだ辛いわ……情けない」
「あーはいはい、寮までご案内させていただきますよ」
「そう言えば、学校のみんな、無事ですかねぇ」
「……イライラするぜ」
「それじゃ、私たちもいったんそれぞれの社に戻りますか」
「七月宮様、社と言っても雨露をしのげるものが残っていらっしゃいますか……?」
 三々五々。妖怪バスターたちが、神々が、それぞれの寄る辺へと戻っていく。
 全員が全員、疲れ切っていた。
 だから、その場にいた全員が、誰も気がつかなかった。飛行機とは似ても似つかない、あまりにも奇妙な飛行物体が、上空を高速で横切っていくのを。

○   ○   ○

 巫呪姫はとあるビルの屋上で、上空を見上げていた。
「ふん。ずいぶんと遅い到着ではないか」
 音もなく、奇妙な飛行体が、巫呪姫の真上で停止する。
 UFO、未確認飛行物体と言えば、説明に足る代物ではあれ、その下部が大きく膨れた物体は、一般的なUFOのイメージとは一線を画している。
 形だけなら、逆さまにした皿と円柱を組み合わせた、いわゆるアダムスキー型UFOと似ていなくもない。しかしその表面はあまりにも有機的な紫色であり、全体的に曲線で構成されたフォルムには継ぎ目が見当たらない。頂上にはご丁寧にも、緑色の葉っぱのようなものが被さっている。
 もっと分かりやすく言えば、巨大でずんぐりとした茄子のような物体が、ビルの上に浮いているものの全容であった。
 巫呪姫は驚きもせずにそれを見上げたまま、叫んだ。
「ヤマシナ、カモ! シモダテイザ、オクミカワテング!」
 それは日本語とも英語とも、地球上のいかなる言語とも似ても似つかぬ言葉だった。
「ムサカカポナータ、ミソデンガクマーボー! シギヤキ、ニビタシ!」
 すると、ドアも何も見えない茄子型UFOの底に、穴が開いた。そこから強い光がビルの屋上を照らし、穴から奇妙なものが現れてゆっくりと降下を始めた。
 やはりその姿も、茄子そのものだった。ずんぐりとした茄子のへたに近い部分に、目と口のようなものがあり、つる草のような細長い手足が生えている。
 地上に降り立ったその茄子型生物もまた、奇妙な言語を以って巫呪姫に話し掛ける。分かりやすいように和訳する、と。
『あなたは地球人か……? しかし、ナスナス原語を流暢に話すあなたは、いったい何者だ?』
『ナスナス星の第二皇女たるコーゲンナスビ・エッグプラント王女は、妾の中で生きておる。そなたらの言葉を解するは、その証よ』
『おお、なんたる……! 王女は地球人めにいかなる仕打ちをお受けになったのか!』
『落ち着け。王女の第一次地球征服計画は失敗に終わった。妾は王女の代理として、プランの変更を提案したい』
『承った! では新たなる王女よ、我々と共に』
『うむ』
 巫呪姫は光の中へと足を踏み入れる。と同時に、茄子型宇宙人と巫呪姫の体が宙に浮かび、そのままUFOへと吸い寄せられていく。
 下界を見下ろしながら、巫呪姫は一人考える。
(なんとも、珍妙な顛末になったものよ。まあ、人にも妖にもなれぬ妾には、似合いの場所かも知れんな。あの男も、似たようなジレンマを抱えたことがあったのだろうか。のう、皇牙よ……。
 しばしの別れだ、人間どもよ。妾は、まだ回天を諦めはせぬぞ)
 大地が、だんだんと遠ざかっていく。

○   ○   ○

 緊急動員によって数倍に増強された機動隊が目にした汝鳥市内は、なんとも凄惨で、そして奇妙な状態だった。
 相変わらず市民は暴走を続けていたが、寝食を忘れ戦った結果、信じられないほどやせ細った彼らは、増員された警官たちの相手にならなかった。
 そして桜の大樹が見えた汝鳥の中心に到達した警官たちは、いっそう奇妙な光景に頭を抱える羽目になった。
 跡形もないのである。全ての警官、市民が目にしたはずの、あの大樹が。
 大樹があったと思われる場所には、腐った大鋸屑のようなものがうず高く積まれているだけだった。
 集団幻覚。蜃気楼。そんな非科学的な根拠を彼らが見たものに求めて、更に結論の行き先は迷走する。
 しかし彼らに、そんな疑問を口にする暇はなかった。市民の安全確保。治安維持。優先しなければならないことは、あまりにも多い。病院に収容された市民はすでに四桁を数え、死者も三桁に届こうとしている。遺体の中には刀のような鋭い刃物で切られたもの、頭部のないもの、途方もなく年老いて干からびてしまったようなものなど、単体で見つかれば怪死体として検死官たちがフル稼働を余儀なくされるような遺体が、霊安室に並ぶことになった。しかしそれらもまた、汝鳥市内全体に起こっていた怪現象の一部としては瑣末な出来事に過ぎず、いずれは迷宮化の案件として、未解決事件の書棚の中へと埋もれていくことになるのだろう。
 だから、市民の一部が目撃した奇妙な光景についても、警察の誰もが好奇心を抱くに足るだけの気力を失っていた。
 あの大樹の跡に、青年たちが集まって、何かを悼むように頭を垂れている光景。
 それは、正気を失った市民たちが見た幻覚だったのかもしれない。その情報は、大方の珍事と一色汰に纏め上げられ、うず高く積まれた報告書の束の奥へと消えていった。
 しかしながら、そこは汝鳥市である。妖怪の伝承が数多く残る、都心に残された伝奇の化石である。
 その情報は市民の口から口へ、尾鰭を伴って伝わっていき、やがてはこんな憶測を汝鳥市民へと撒き散らすことになる。
 「彼らはこの汝鳥市を救ったのではないか」と。

弥生(18)

 異変から数日後。
 ウォレスの姿は、汝鳥市内の銀行にあった。
「こちらになります」
 行員に案内されて到達したのは、銀行の地下に設けられた貸し金庫である。分厚い鉄筋コンクリートと重い鉄の扉によって密閉された空間は、幸いにも汝鳥市内の混乱に対して揺らがなかったようだ。
(播磨さンは先見の明がおありだったようデスね……流石、伊達に長生きはしちゃおりマセン)
 懐かしき幽霊マンション「グリーン・ホーム」に戻ったウォレスは、整理していた郵便物の中に、播磨源蔵からの手紙を見つけた。中には「重要なものは貸し金庫に預けたから、自分に何かあったらお前が代理人として取りに行け」という趣旨の文面と共に、貸し金庫の鍵と代理人証明の書類が入っていた。事実、オカルト・ミステリー倶楽部や剣術研究会の重要な資料群は、全て播磨の家に預けていたことを考えると、明断と言わざるを得ない。
 金庫の中には案の定、サークル活動で特に重要な履歴ノートが数冊。そしてその上に乗せられた一枚の封書が、特にウォレスの目を引いた。
 遺言書である。遺言執行者として、ウォレスとネイの名前が記されている。
(……至れり尽くせりデスが……こうなることまで分かって準備してくださったというのも、寂しいものデスね)
 ウォレスはその場で遺言書の封を切った。曰く、源蔵の財産は親族に均等分配すること、ただし播磨金具店のあった土地の地権は、汝鳥学園のサークルであるオカルト・ミステリー倶楽部と剣術研究会の顧問のいずれかに譲渡すること、その分配は双方で話し合って決めることなどなどが記されていた。
(……なるほど。封印の保守デスか。いいデショ、任されマシタよ……これなら、あすこに社を建てるのに文句をつける人もおりマスまい)

○   ○   ○

 それから更に、数日後。
 警察の現場検証が半ば強引に打ち切られた汝鳥の中心地に、重機を載せたトラックが姿を現した。それらを追うように、なぜか神道の装束を身につけた宮司らしき人物を乗せた車も現れる。
 ささやかな地鎮祭のあと、速やかに工事が始まった。土を掘り起こし、コンクリートの杭を埋め込み、補強された地盤の上に木造の構造物が現れる。
 熟練した宮大工たちの手によって、この地に小さいながらも堅牢な社の姿が現れ始めたのは、更に二ヶ月ほど経ってからの話になる。
 何のための社なのかと、その様子を道すがら眺める汝鳥市民たちは首を傾げる。今回の大事件に対する慰霊の標にしては、その旨を書き記す碑文なども見当たらない。
 しかし、この場で祈りを捧げていた青年たちの噂も相俟って、その社の目的に関する推察は、奇妙な確信を伴って、一つの方向へと収束していく。
 あれは祈念の砦なのだろう、と。

○   ○   ○

「泥沼のような戦いの末に、僕にとどめを刺したのは、僕の義理の母親とも言うべき女性でした。あの人は戦いを楽しむように常に笑顔でしたが、目は少しも笑ってなんかいませんでした。今でもあの顔を思い出すと、胸が痛みます」
「それで、記憶を自ら封じていたわけデスか。葦矢の名前を聞いてそれを思い出した、と」
 落ち着きを取り戻した汝鳥学園の、図書準備室。ウォレスは向かいに座る小次郎の述懐の、聞き役に徹していた。
「やはり、僕自身にとっては思い出したくもない、辛い記憶だったのでしょう。もう少し早くに、葦矢のことを思い出せていれば、これほどの大騒ぎにはならなかったと思います」
 彼がウォレスの下を訪れたのは、迷惑をかけた詫びであるという。そのついでに、葦矢の一族がなぜ供馬尊の封印に拘っていたかについても、一通りは聞いている。
 葦矢萬斎の三代前……葦矢晴斎もまた、力のある術者ではあった。しかし同時に、己の能力を過信しすぎていた。
 早くから大厄の到来を予見し、京汝鳥の民の信頼を得て、京汝鳥全体を利用した大封印を指揮した、そこまではよかった。しかし供馬尊が死闘の末に、封印される寸前にその半身を切り離し、汝鳥の外へと逃して以来、晴斎の中の何かが狂い始めた。
 晴斎は完全な封印に拘るあまり、幾人かの妖怪を甘言と暗示で惑わせ、京汝鳥の民に先んじて供馬尊の半身を奪おうとした。しかし、被害の拡大を防ごうとする京汝鳥の民の奮闘により、それを果たすことはできなかった。東汝鳥の封印は播磨の家で厳重に守られ、みだりに手を出すこともできなくなった。
 以来、百年。葦矢の一族は、雪辱だけを願い、結界にほころびが生じるのを、封印の鍵となる鴉取の家の双子が生まれるのを、ただひたすらに待ち続けていたことになる。
「天才に生まれるのも考えもんデスねぇ……誰にだって失敗はつきもんなのに、それを認められないばっかりに狂信的な方向に突っ走る。アタシには到底真似できマセン」
「そういうものは天災とは言っても天才にはなり得ぬでしょう。……さて、聞いてくださりありがとうございます。お陰で、鬱憤も少しは晴れた気がします」
「いえいえ。今回の件は腑に落ちないことが残ってマシタからね。色々教えてくださり、ありがとうございマシタ……で、これから、どちらに?」
「京都へ向かおうと思っています。歩き巫女であった義母が愛し、長く逗留した京汝鳥の今日を見ておきたいのです。その後はあてもなく日本各地を転々としようかと」
「こちらへ戻ってくるつもりは、ありマセンか? 我々の活動に力を貸していただけると、鬼に金棒なのデスが。ってこの場合は金棒も鬼デスか」
「情が移るのも後々支障が出そうなので、遠慮します……それから、もう一点。あの半鬼の……龍波、とかいう青年には、もう一つの部室に行けば会えるでしょうか?」
 ウォレスが表情を曇らせる。
「彼はまだ戻ってきておりマセンよ。今ごろどこかで、悪と戦ってるんじゃないデスか」
「そうですか。では放浪のさなかに会うこともあるかも知れません。彼にも一つ、侘びを入れたかったことがある」
「何デスか、そりゃ?」
 小次郎は、自嘲が篭ったと思える微かな笑みを浮かべる。
「私は鬼としての本性を恐れていたわけではなかった……。単に、我を失って人を殺めていた、あの時を思い出したくなかっただけなのです」

○   ○   ○

 同じ頃、ネイ・リファールの姿は汝鳥学園の、校長室の中にあった。
 その校長が、ひきつった顔でネイと、その背後のものを見ている。
「……私ぁ、横暴に屈するつもりはありませんよ、リファール先生」
「たわけ。パワーハラスメントなどではない。これは正当な論拠に基づく申し入れである。分かったら校内における妖怪バスター活動の禁止を、とっとと解除してもらおうか」
「せ、正当なって、何を根拠に……と言うか、本当に正当なら、後ろの方々は必要ないのではありませんか!?」
 ネイは一人ではなかった。
 隣には、そらが控えていた。
 更に背後には「後ろの方々」……黒服の、あの萬斎の門弟たちよりも、体一回り二回り大きな男たちが、ずらりと並んでいた。
「これは友人たちだ。今回の話について大いに興味があるそうだ」
「が、学校の関係者以外は立ち入り禁止」
「話を逸らそうとするな、この大うつけがああああああっ!」
「うわああああああ!」
 問答無用の気迫と怒声が、校長の体を壁際まで吹き飛ばす。
「な、ななな、何なんですか、あなたは!」
「それはこっちの台詞だ、校長よ!
 なあ、校長。貴様らは我々が留守の間、いったい何をやっていた? あらぬ誤解を受けて我々が『一時退避』を余儀なくされていた間、いったい何をやっていた? 不可思議極まりない事態に対応できぬばかりか、ナスナス叫びながら暴れ回っておったのであろう?」
「そ、それは言わないでいただきたい……」
「危険だからという理由で! 生徒たちから剣を取り上げた結果がそれであろう! 必要なものは、生徒たちを危機から遠ざけることではなく! 危機に対して、いかに対応するかを教えることであろう! しからば妾は、その危機に対応できる機構の復活を強く要求する!」
「そ、そんな……仮に妖怪バスターが市内に残っていたとて、あの奇怪な現象に対応できていたかどうかなど……」
「たらればで語ることに、何の意味などありはせんわ! タラは煮つけでレバは炒め物だ! しかしはっきりしているのは、妖怪バスターのおらぬ汝鳥で、人は怪異に対してなす術がなかったという、確固たる事実であろうがっ!」
「そ、それは、確かに……ですが……」
「ですがもデスラーもないわ! 妾が必要とする回答は『はい』か『イエス』かのいずれかである! さあ、好きな方をさっさと選べぃ! 選ばずば……妾の気の短い友人たちが、こぞって切れ始めるぞ?」
 男たちが、力を誇示するように拳を鳴らし始める。
「あの、『いいえ』とか『ノー』とかは」
「最初から入っとらんに決まっとろうがっ!」

弥生(19)

 鋼音が威勢よく、剣術研究会部室の扉を開ける。
「朗報よー。活動再開の許可が下りたわ!」
 朱陽がその声を聞いて苦笑いする。
「流石リファール先生だねぇ。こう言う時だけ、異様に頼りになる」
「何はともあれ、これで終わりではないのよ。もうちょっとだけ続くのよ。その間に今度は私が伝説を作るのよー」
「とっても長続きしそうな『もうちょっと』だよねぇ、それ」
 吹雪もまた部室の窓際で、鋼音と朱陽の長閑な掛け合いを眺めている。
(なんだかんだ言って、これで元の木阿弥、か。……いや、流石にそういうわけにも行かないかもな)
 確かに、供馬尊の一件からはや二ヶ月が過ぎ、周囲を取り巻く彼らの環境は、おおむね元に戻りつつある。
 暴走していた汝鳥市民は次第に正気へと帰り、数多くの疑問を抱えつつも、いつも通りの日常に戻っていった。何より、文化祭での騒動以来、妖怪バスターの活動から退いていた市井の妖怪バスターたちが、供馬尊を封じた学生たちの話を聞きつけ、現役に復帰し始めている。負の面を色々と抱えているが、それでも汝鳥には妖怪バスターという特異な仕事が必要とされている証だろう。
 神器は供馬尊の社に奉納され、吹雪たちの手元にはある種の達成感だけが残された。
 怪我をした人間も続々部活動に復帰しており、あとは妖怪バスターの活動も再開できれば全てが元通り……というわけには行かなかった。
 オカルト・ミステリー倶楽部の一年生たちが、結局何人か姿を消し……そして剣術研究会にも、最も存在感を放っていたあの男が戻ってきていない。
(今ごろ……どこで戦ってんだろうな、龍波先輩……)
 がちゃん、と、扉が開く音。吹雪が思わずそちらを見る。
 現れたのは毎度おなじみ、あの大きな影……ではなかった。
「ごっきげんよう、皆様〜」
 そう言いながら部室に足を踏み入れるトウカは、本当にご機嫌であった。その背中には相変わらずミニサイズのリュックと、その中で人形のようにかしこまった彼がいる。
 朱陽が呆れた顔で、それを見る。
「……兄さんに『めっ』はしてもらわなかったのかい?」
「無論なったさ、喧嘩にまでなった……部屋が半分破壊された辺りで、諦められたけどね」
 ジョシュアが答える。泣きそうな声で。
 吹雪もまた目を細めて、トウカの左手を見る。その薬指には依然として、収まったままだ。彼女とジョシュアの、「結婚指輪」が。
「なー、お嬢様。乗っ取られてる間、意識あったんだろ? だったら、その指輪がどういうものかは分かってるよな?」
「ええ、私なりに分かってるつもりですわよ?」
 だったら、と言おうとする前に、トウカは言葉を続けていた。
「でも私、この指輪の使い方、知りませんもの」
 部室にいた全員が絶句する。
「だったら、結婚指輪にしても差し支えありませんわよね? ねぇ、ジョシュアさん」
「だーかーらー、認めてない。君が使い方を知らなくても、その指輪は世界を破壊しかねない代物でー」
 吹雪はその辺りで、永遠に通じ合うことを忘れた漫才の視聴を諦めることにした。
 かつて魔神によって造られ、多くの人間が奪おうとしたその指輪も、天真爛漫なお嬢様にかかってしまうとただのアンティークになってしまうらしい。
 悪用されることがなければ……悪用しようとする者が現れなければ、そのままでもいいような気がしてくる。……ジョシュアにとっては災難であろうが。
 このままジョシュアが音を上げて婿に入るか、隙を見て逃げ出すか。……はたまた、トウカが今の「コレクション」に飽きるのが先か。
 いずれにしても、彼の旅はもうしばらく続きそうである。

○   ○   ○

 小次郎が去ったあとの図書準備室で、ウォレスは紅茶を啜りながら、なんとなく書類の整理に取り掛かっていた。今日は小次郎のほかにもう一人、来客があるのだ。
 こんこん、と、扉をノックする音。
「どうぞ」
 ややあって扉が開き、暗灰色の髪を持つ男が隙間から顔を出す。
「おや。まだ腕が治ってませんデシタか」
「もう少し、再生には時間がかかる。いやまったく、日本人は容赦を知らんね」
 男がジャンパーの左袖を揺らしながら、部屋の中へと足を踏み入れる。
「ま、何はともあれようこそ、ヴラド・ドラクア公。伝説の吸血鬼自らのご訪問とは、一研究者として感激の至りデスよ」
「やめてくれ、もう公爵じゃないし……あの本だって、ボーンが勝手に書き散らしたことだ」
「ま、おかけくだサイ。何かお飲みになりマスか。セイロンでもダージリンでも、お好きなものをどうぞ。部屋は埃まみれでも茶葉は一級デスよ」
「びっくりするほど英国紳士だね、君は」
 その男、浦戸辰之進がウォレスの向かいに腰かける。
「供馬尊のお社はもう見に行きマシタか?」
「見た見た。えらく立派に祀ってもらったもんだ」
「どうデス、アナタも祀ってもらいマスか? ここじゃ祀られれば鬼も悪魔も神になれマスよ」
「悪くはないが、少々くすぐったいので今は遠慮しておく。……さりとて、そこいらをうろついていると、やはり退治されてしまうものかな?」
「かなりの確率で、容赦なくデスね。トランシルヴァニアへの里帰りをお勧めしておきマスが」
「キリストの使徒が剣や鉄砲持って追いかけてくるのがいやで、日本に逃げてきたんだよ? 何かほとぼりの冷ませるような場所を知らんかね」
「それなら、マヨイガと呼ばれる人外の隠れ里がこの街には幾つかありマスよって、そこでしばらく大人しくしているといいデスよ。そうデスね、百年くらいじっとしてりゃ、外の人間はみんな入れ替わりマス」
「百年か、長いね……まあ、狭苦しい封印の中にいるよりかは幾分増しか」
「ま、それもいやんなったら、いつでも相談に乗りマス。信仰さえもらえりゃ、神も悪くないと思いマスよ? 供馬尊も、今は不自由していないデショウし……いや、彼はもうその名前じゃないかな?」

○   ○   ○

 完成した社の前に、犬を連れた少女が一人佇んでいた。
「結局、こうなりましたか。落ち着くところに落ち着いたって感じでありますね」
「あんたも祀ってもらったら? 元犬神様」
 大顎は、美音子の茶化しを鼻で笑う。
「昔々のお話です。今は犬小屋の一つも建ててもらえりゃ、十分でございますよ」
「ま、野良の戯言はさておくわ……それで」
 美音子が耳を済ませながら、眉に皺を寄せる。
「単に冷やかしにきただけだったんだけど。この音、なんだか分かる?」
「何かが、燃えてるような音ですねぇ」
 その音は、通りすがる人間には聞き取れないほどの微かなものだった。それを聞き取ることができたのは、彼らが犬猫の妖怪であればこそ。
 ごぅ…… ごぅ……
 大顎の指摘通り。勢いのある炎の揺らめきの音である。それも規則的と言えるレベルの周期で大小を繰り返している。
「中で火でも炊いてるお馬鹿さんでもいらっしゃるのか……」
「様子、見てみる? 勝手に入ると罰が当たりそうだけど」
「大丈夫なんじゃないですかね。一応、顔見知りですし」
 一応周囲に人がいないことを確認してから、正面の扉を開ける、と。
 熱気が中から噴き出してきた。その勢いに思わず一人と一匹が顔を背ける。
「何ですか、こりゃ!?」
 大顎が思わず声を裏返した。顔を上げた先には、社の見かけよりも数倍はありそうな空間が広がっていた。
 その中心で、上半身裸の老人が、取っ手のついた木箱のようなものを繰り返し、繰り返し操っている。彼が取っ手を引いて押す度に、箱の隣に見える煉瓦の壁の間から、炎が勢いよく噴き出すのが見える。
 その老人は、大顎と美音子の様子に気がつくと、取っ手を動かしながら顔だけをそちらに向ける。
「……なんだ、お前らか。今更のこのこ何しに来た?」
「あんたこの前の妖怪さんですか……何してんのか聞きたいのはこっちですよ」
「ふいごで火を起こしている。知らんか? ふいごというものは」
「いやそれは分かるんですが。燃え移ったりとかしないんですか?」
「心配はいらん。この部屋の中は神域で、私の結界そのものだからな。それで、お前たちは何の用だ?」
「変な音がしたから、覗いてみただけですよ。なんで、鍛冶屋の真似事なんか、やってるんです?」
 老人の、皺だらけの顔にますます皺が寄った。
「真似事とは失敬な。これはむしろ、本業だよ。錬金術は副業だ。
 社を建ててもらってからしばらくしてな。同業者を名乗る輩が、ここを尋ねてきたのだ。八百万の一柱となったからには、時折信徒に恩恵を与えねばならんと言うじゃないか。今はよいが、忘れ去られて信仰を失うと、神通力をも失ってやがては消えてしまうだろうと、私を脅すのだよ」
 大顎と美音子、二人の脳裏に、九尾を持つ神様の顔が、同時に浮かぶ。
「それで、武器を打つことにした。昔取った杵柄もあるし……何より、この場所には、武具を扱う者の残留思念が満ち満ちている。きっと、ここに奉納された宝具をも超える業物ができると思うのだ」
 大顎と美音子は、顔を見合わせた。二人とも面識は薄いが、かつてこの場所を住居としていた封印の守り手のことは、よく知っている。
「そりゃ当然だ、旦那……ここに住んでた人もね、武器の商人で、また作り手でもあった。とびきり頑固者の、ね」
「そうか。それではますますよいものを打たねばなるまいな。さもなくばその頑固者が化けて出るやも知れん」
 取っ手を、力強く押し込む。煉瓦の炉から、いっそう強く炎が上がった。すぐさま彼はその炉に金具を突っ込み、赤く熱された鉄塊を取り出すと、傍らにあった金属の台座の上に移す。
 がちんがちんと鉄塊を槌で叩き伸ばし始めるのを見て、二人はこれ以上の会話は無理であろうと悟る。互いに目で合図をして、外に出る。
「……よい職人になるんじゃないですかね」
「そうかしら?」
「あの分だと、化けて出るどころか、もう乗り移ってるかも知れませんや。体はくたばっちまっても、心は残るもんなんですねぇ」
 大厄・供馬尊。それが老人の、日本で呼ばれたかつての名前。
 いつしかその社は、正しき戦士と認められた者にのみ神刀を授ける神社として、妖怪バスターたちの間で評判となり、その祭神が刀磨比古命(とまひこのみこと)と称されるようになるのは、少々未来の話になる。

弥生(20)

 アパート「夕凪」の一室。瑠璃と智己、それから塔子が正座して向き合っている。
「我々は三年に進級し、受験や就職活動などサークル活動への専念が困難になる。そこで、今後のサークルの運営全般は、鷲塚に任せようと思う。これは正式ではないが、次期部長指名であると思ってもらって構わない」
 智己が複雑な表情を浮かべる。
「僕が部長、ですか」
「異論はあると思うが、私は現行取り得るベストの選出だと思っている。多賀野はどちらかと言えば、今後は神社の仕事の方を優先せざるを得なくなるだろうしな」
「はい。申し訳ありません」
 瑠璃が頭を下げる。供馬尊の一件における瑠璃の成長振りは、何より瑠璃の家族を驚かせるものだった。彼らは箱入り娘として慎重に瑠璃を扱ってきたことを恥じ、今後は戎神社における神事の首班を担わせようと考えているという。
 それに加えて、瑠璃自身は天乃原にある七月宮の社を復興し、定期的に詣でるつもりでもいる。彼女の仕事は多忙を極めるのだ。
「おのずと、鷲塚しかいなくなる。責任は重大だが、頑張ってもらいたい」
「……今回の件で、一つだけ学んだことがあるんです」
「ん?」
 塔子が、瑠璃が、智己を見る。
「剣を授かって、毎日ぼろぼろになるまで修業して。ある程度の技術は身につきましたが、結局、足を引っ張ることしかできなくて。それで感じたのは、一人じゃ何にもできないってことでした。
 至らないリーダーかも知れませんが……みんながついてきてくれるというのであれば、精一杯、勤めを果たしていきたいと思います」
「うむ」
「それで、ですよ。もしも、僕が部を立派に纏め上げられるようになった暁には……今後とも、隣にいさせてもらって、よろしいでしょうか」
「……え?」



 がす。
 智己の脳天に、背後から大介のかかとが直撃した。
「イライラするぜ」
 瑠璃も呆れて、頭を抱えた智己を見る。
「こんなところで、告白するー? もうちょっと、空気読もうよ」
「こ、こういう場所でないと、はぐらかされると思って」
「馬鹿者」
 ごちん、と。塔子の拳も追い打ちをかけた。……ただしこちらは、軽く小突く程度に。
「差し当たっては、新入部員の勧誘! ただでなくてもうちは部員が剣研に比べて圧倒的に少ないんだ、知恵を絞れ。一人も集まりませんでしたじゃあ、承知しないからな。
 こうやって厳しく当たるのも、君に期待してのことなのだからな? きちんと着いてこなければ、隣になんぞいさせてやるものか」
「へ?」
 顔を上げた智己に対して、塔子は顔を背ける。
「二度も言わせるな、痴れ者が!」
「は、はい!」
 大介が面倒くさそうに寝転がり、瑠璃が思わず噴き出しそうになる。なんとも微妙な空気。
 と、そこに。
「あー、はいはい。もう込み入った話はお済みですじゃかー?」
 割り込んできたのほほんとした声に、今度は大介が頭を抱える。
「……イライラするぜ」
 中華なべを両手に抱えて現れたのは、白い和服の上に割烹着を羽織った九尾の娘。七月……恋歌の方。
 思わず智己が、先ほどまでの空気を忘れる。
「……社に戻ってないと、まずいんじゃないの?」
「それがね」
 瑠璃が解説する。
「こういう形で新たな信仰を得ようというのが、七月宮様の新しいお考えなの。というわけで皆さん、きちんといただいてくださいね?」
「味は八歳様も太鼓判ですじゃ」
 狐憑き。
 思わず、大介は脳裏でそんな単語を連想する。
 それは本来違う意味に用いられるが、現在の状況は、まさに呪いだ。
 いったいいつまでこのお稲荷様は、自分につきまとうつもりなのか。そのうち取って食うつもりじゃあなかろうか。
「ほらほら、大介様も召し上がってくださいですじゃ。たくさん食べて、力を蓄えるのですじゃよ?」
 と、マーボー豆腐の入った器と蓮華を押し付けられる。ほら、こうやって肥え太らせようとしているし。
「……イライラするぜ」



 部屋の外では、真琴が鍋を手にしたまま扉の前で脱力していた。
「……デリカシーないなぁ」
 タッパーを手にした春菜が、真琴の肩を叩く。
「まあ、何とかなるんじゃない?」

○   ○   ○

「……おかしいなぁ」
 晴海が、予備校のパンフレットを手にして呟く。
「晴海って、本番弱いタイプだって言われない?」
「そういう堀君は、しっかり合格したんですよね……」
 流石にサワンが恨めしくなる。異変の前後も頑張ってるようにはとても見えなかったのに。
「早速奨励金のお世話になるけどね。まあ、くよくよしない。君のことだ、どうせ一月中は試験勉強に手がつかなかったんだろ? ほかの連中のフォローで」
「人のよい性格が、こう言う時ばかりは煩わしく感じますよ、本当……」
「ま、一年はゆっくり羽根を伸ばすんだね。しばらくは他人のしがらみとかに流される心配もないだろうし。ところで」
 サワンが晴海に尋ねる。
「マリアちゃんはどこに行ったか、知ってるかい? 大学受けたそぶりないし、彼女、就職だよね?」
「ああ、彼女なら。適職を紹介するってラインバーグ先生が言ってましたよ」
「ゲーさんが? 何を紹介したのやら」

○   ○   ○

 平行に机が並べられた会議室に、いかつい男たちがひしめいていた。
 壇上に、大柄な男が一人立って、その男たちに呼び掛ける。
「本日よりこのリファール財団直属警備隊にも、一名の新人を編入させることになった。どうかよろしく鍛えてやってほしい」
 男たちがざわめいた。その新人とやらは、まさか隊長の隣に立っているあの少女のことかと。まだシニアスクールも出ていないのではと思われるほど、その浅黒い肌を持つ娘は小柄だった。
「おっす、マリア・ロックウェルです。よろしく!」
 動揺する男たちに、隊長が説明する。
「ロックウェルはついこの前までナドリでモンスターハントの経験を積んだ戦士だ。身長が若干足りんが、体力適性はあるし、何よりモンスターとの戦闘経験があるのを買って、特例で採用することになった」
「まー足引っ張らない程度に頑張らせてもらいますんで、どうぞお手柔らかに」
 なお顔を見合わせる男たちを前に、マリアは朗らかに笑った。
 いやはや、土壇場でいい職場が見つかったものだ。

○   ○   ○

 都内某所の、アクターズスクール。その一室では、芸能界入りを夢見る少女たちが、ダンストレーニングにいそしんでいる。
「『高原瑞樹』! 半テンポ遅れてるよ。余計な考え事はしない!」
「はい、すみません!」
 トレーナーに喝を入れられたのは、黒いストレートの髪を持つ、黒目がちの少女。
 彼女は、巫呪姫は、その後ナスナス星人たちの計らいで「高原瑞樹」の偽名を手に入れ、都内のマンションで一人暮らしを始めていた。
 元々、人間を欺くのは得意分野だ。彼女の目指す回天は、那須子とほぼ同じアプローチから始まることになった。
 人間を制したいならば、まずは全ての人間たちを引き付けるべきだ。それが那須子の助言である。
(いやはや、地道に過ぎる再出発よ。いや、これまでが恵まれすぎていただけかも知れんな。……まあ、待っておれ妖怪バスターどもよ。妾は必ずや)
(……王女、王女)
 思考に、別の声が割り込んでくる。ナスナス星人の毒電波通信だ。
(何じゃ。妾は取り込んでおる。手短にいたせ)
(申し訳ありません、緊急の用件です……先ほど、急進派が地球の武力制圧を目指し、戦闘部隊を派遣したとの情報にございます)
(何? 早過ぎるぞ……止められなかったのか!?)
(コーゲンナスビ王女の地球制服計画が失敗に終わったことを受けて、第一皇女の派閥が王女の方針に異を唱えたようでして。新たな王女を容認しない輩も事態を煽っておりまする)
(今、第一皇女と申したな。急進派とやらも、その第一皇女の派閥に属する者か?)
(左様にございます)
(ならば、やらせておけばよい。挑んで、ぶちのめされれば、第一皇女の発言力も弱まろう)
(戦闘部隊は強力ですぞ。地球人では歯が立たない可能性が……)
(問題ない。地球人は奴らが思っている以上に、頑丈だからな)
「こら、高原!」
 トレーナーの声が、強引に電波通信を打ち切る。
「す、すみません」
 頭を下げながらも、巫呪姫は内心ほくそ笑んでいた。
(展開が早い……早速面白いことになってきたな。退屈はせんで済みそうだ)